・・・無論その辺には彼に恰好な七円止まりというような貸家のあろう筈はないのだが、彼はそこを抜けて電車通りに出て電車通りの向うの谷のようになった低地の所謂細民窟附近を捜して見ようと思って、通りかゝったのであった。両側の塀の中からは蝉やあぶらやみんみ・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・神魂かたむけて書き綴った文章なのであろう。細民街のぼろアパアト、黄塵白日、子らの喧噪、バケツの水もたちまちぬるむ炎熱、そのアパアトに、気の毒なヘロインが、堪えがたい焦躁に、身も世もあらず、もだえ、のたうちまわっているのである。隣の部屋からキ・・・ 太宰治 「音に就いて」
・・・飢えに泣いているはずの細民がどうかすると初鰹魚を食って太平楽を並べていたり、縁日で盆栽をひやかしている。 これも別の事であるが流行あるいは最新流行という衣装や粧飾品はむしろきわめて少数の人しか着けていない事を意味する。これも考えてみると・・・ 寺田寅彦 「春六題」
・・・「そりゃ君、仏国の革命の起る前に、貴族が暴威を振って細民を苦しめた事がかいてあるんだが。――それも今夜僕が寝ながら話してやろう」「うん」「なあに仏国の革命なんてえのも当然の現象さ。あんなに金持ちや貴族が乱暴をすりゃ、ああなるのは・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・乱を避くる領内の細民が隠るる場所もある。後ろは切岸に海の鳴る音を聞き、砕くる浪の花の上に舞い下りては舞い上る鴎を見る。前は牛を呑むアーチの暗き上より、石に響く扉を下して、刎橋を鉄鎖に引けば人の踰えぬ濠である。 濠を渡せば門も破ろう、門を・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・コンクリートの二階建て、産院は細民カードに登録された家庭の婦人をお産の前後二週間四十人収容できるものなのだそうだ。 そして、一緒に建つ姙婦健康相談所で、プロレタリア婦人の避姙の相談にものり、産院で子を生ませてもらっても、とうてい育てられ・・・ 宮本百合子 「「市の無料産院」と「身の上相談」」
・・・真ギはわからないが、若し日本の社会主義者が本所深川のように、逃場もないところの細民を、あれほど多数殺し家をやき、結局、軍備の有難さを思わせるようなことをするとしたら、実に、愚の極、狂に近い。 鮮人の復讐観念が出たのなら、或程度までそれぞ・・・ 宮本百合子 「大正十二年九月一日よりの東京・横浜間大震火災についての記録」
出典:青空文庫