・・・私の家では、あなたの評判は、日が経つにつれて、いよいよ悪くなる一方でした。あなたが、瀬戸内海の故郷から、親にも無断で東京へ飛び出して来て、御両親は勿論、親戚の人ことごとくが、あなたに愛想づかしをしている事、お酒を飲む事、展覧会に、いちども出・・・ 太宰治 「きりぎりす」
・・・けれども、ひとつき経つと、もういけない。そろそろ駄犬の本領を発揮してきた。いやしい。もともと、この犬は練兵場の隅に捨てられてあったものにちがいない。私のあの散歩の帰途、私にまつわりつくようにしてついてきて、その時は、見るかげもなく痩せこけて・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・千六百、いや、西暦千七百、千九百、笑いなさい、うんと笑いなさい、あなたは自分の才能にたよりすぎて、師を軽蔑しているのです、むかし支那に顔回という人物がありました、等といろんな事を言い出して一時間くらい経つと、けろりとして、また此の次の事にし・・・ 太宰治 「千代女」
・・・しかし、日本人の日常生活がだんだん西洋人のに近くなって一世紀二世紀と経つうちには髪の色もだんだん明るくなって行かないとも限らないであろう。 呼び物の「金色の女」はなるほどどうしても血の通っている人間とは思われなくて、金属の彫像が動いてい・・・ 寺田寅彦 「マーカス・ショーとレビュー式教育」
・・・暫く経つと赤はすっと後足で蕎麦の花の中から立つ。そうして文造を見つけていきなりばらばらと駈けて来る。鼻先は土で汚れて居る。赤は恐ろしい威勢のいい犬であった。そうして十分に成長した。夜はよく足音を聞きつけて吠えた。昼間でも彼の目には胡乱なもの・・・ 長塚節 「太十と其犬」
余は子規の描いた画をたった一枚持っている。亡友の記念だと思って長い間それを袋の中に入れてしまっておいた。年数の経つに伴れて、ある時はまるで袋の所在を忘れて打ち過ぎる事も多かった。近頃ふと思い出して、ああしておいては転宅の際などにどこへ・・・ 夏目漱石 「子規の画」
・・・一年一年が経つごとに社会と政治の現実は、人間性と文化の擁護のためにはファシズムと闘わなければならないという実際の政治的必要を文化欲求の基礎として実感させてきました。そしてそれは行動されはじめました。文学における政治の優位性の問題は、現在では・・・ 宮本百合子 「新しい抵抗について」
・・・ 三日四日経つうちに彼は家の中だけ歩くようになった。 従って千代を見る機会も増した。 彼は風呂場などに行ったかえり、よく妻と顔を見合わせては、むずかしい顔をして頭をふるようになった。 それに対して、さほ子は瞹昧極る微笑を洩し・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・ 考えて見ると、それから一年位経つか経たないうちに、外国語学校教授で、英国官憲の圧迫に堪えかねて自殺したという、印度人のアタール氏を始めて見たのがその周旋屋の、妙に落付かない応接所であった。 今顧ると、丁度その夏は、貸家払底の頂上で・・・ 宮本百合子 「思い出すこと」
・・・むくつけい暴男で……戦争を経つろう疵を負うて……」「聞くも忌まわしい。この最中に何とて人に逢う暇が……」 一たびは言い放して見たが、思い直せば夫や聟の身の上も気にかかるのでふたたび言葉を更めて、「さばれ、否、呼び入れよ。すこしく・・・ 山田美妙 「武蔵野」
出典:青空文庫