・・・袖無しの上へ襷をかけた伯母はバケツの雑巾を絞りながら、多少僕にからかうように「お前、もう十二時ですよ」と言った。成程十二時に違いなかった。廊下を抜けた茶の間にはいつか古い長火鉢の前に昼飯の支度も出来上っていた。のみならず母は次男の多加志に牛・・・ 芥川竜之介 「年末の一日」
・・・喉も裂け破れる一声に、全身にはり満ちた力を搾り切ろうとするような瞬間が来た。その瞬間にクララの夢はさめた。 クララはアグネスの眼をさまさないようにそっと起き上って窓から外を見た。眼の下には夢で見たとおりのルフィノ寺院が暁闇の中に厳かな姿・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・私の生命全体が涙を私の眼から搾り出したとでもいえばいいのか知らん。その時から生活の諸相が総て眼の前で変ってしまった。 お前たちの中最初にこの世の光を見たものは、このようにして世の光を見た。二番目も三番目も、生れように難易の差こそあれ、父・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・の蝶が、境内を切って、ひらひらと、石段口の常夜燈にひたりと附くと、羽に点れたように灯影が映る時、八十年にも近かろう、皺びた翁の、彫刻また絵画の面より、頬のやや円いのが、萎々とした禰宜いでたちで、蚊脛を絞り、鹿革の古ぼけた大きな燧打袋を腰に提・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ 衣の雫 十 待乳屋の娘菊枝は、不動の縁日にといって内を出た時、沢山ある髪を結綿に結っていた、角絞りの鹿の子の切、浅葱と赤と二筋を花がけにしてこれが昼過ぎに出来たので、衣服は薄お納戸の棒縞糸織・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・と深刻なる声を絞りて、二十日以来寝返りさえもえせずと聞きたる、夫人は俄然器械のごとく、その半身を跳ね起きつつ、刀取れる高峰が右手の腕に両手をしかと取り縋りぬ。「痛みますか」「いいえ、あなただから、あなただから」 かく言い懸けて伯・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・ 駒下駄のちょこちょこあるきに、石段下、その呉羽の神の鳥居の蔭から、桃割ぬれた結立で、緋鹿子の角絞り。簪をまだささず、黒繻子の襟の白粉垢の冷たそうな、かすりの不断着をあわれに着て、……前垂と帯の間へ、古風に手拭を細く挟んだ雛妓が、殊勝に・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・自分は蹶起して乳搾りに手をかさねばならぬ。天気がよければ家内らは運び来った濡れものの仕末に眼の廻るほど忙しい。 家浮沈の問題たる前途の考えも、措き難い目前の仕事に逐われてはそのままになる。見舞の手紙見舞の人、一々応答するのも一仕事である・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・沈毅な容貌に釣合う錆のある声で、極めて重々しく一語々々を腹の底から搾り出すように話した。口の先きで喋べる我々はその底力のある音声を聞くと、自分の饒舌が如何にも薄ッぺらで目方がないのを恥かしく思った。 何を咄したか忘れてしまったが、今でも・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・落ちは遂に出来なかったが、無理矢理絞り出した落ちは「世相は遂に書きつくすことは出来ない。世相のリアリティは自分の文学のリアリティをあざ嗤っている」という逆説であった。何か情けなくて、一つの仕事を仕上げたという喜びはなかった。こんなに苦労して・・・ 織田作之助 「郷愁」
出典:青空文庫