・・・そして他郷に遊学すると同時にやめてしまって、今日までついぞ絵筆を握る機会はなかった。もと使った絵の具箱やパレットや画架なども、数年前国の家を引き払う時に、もうこんなものはいるまいと言って、自分の知らぬ間に、母がくず屋にやってしまったくらいで・・・ 寺田寅彦 「自画像」
・・・それがためには、しばらく絵筆をすてて物に親しむ事に多くの時を費やす必要がある。 海老原氏の変った絵がある。こういう種類の絵が、作者にどれほど必然であるか、が何時でも自分には分らない。例えばルソオなどという人はおそらく、ああいう絵より・・・ 寺田寅彦 「二科会展覧会雑感」
・・・喜多川歌麿の絵筆持つ指先もかかる寒さのために凍ったのであろう。馬琴北斎もこの置炬燵の火の消えかかった果敢なさを知っていたであろう。京伝一九春水種彦を始めとして、魯文黙阿弥に至るまで、少くとも日本文化の過去の誇りを残した人々は、皆おのれと同じ・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・じっと心を守り、余分な精力と注意は一滴も他に浪費しないように、念を入れ心をあつめて、ペンならペン、絵筆なら絵筆を執るべきでしょう。 恋愛に対してもそうであろうと思われます。決して卑しく求むべきではないし、最上とか何とか先入的な価値の概念・・・ 宮本百合子 「愛は神秘な修道場」
・・・ 誰にも会わず何にも読めもしないで居る千世子には、絶えずはかどって行く絵筆の運びと心も身もその筆の先にこめて居る京子の様子を見るのがたった一つの慰めであった。 京子は着物の色も模様もなるたけ千世子の心にかなった様にして居た。・・・ 宮本百合子 「千世子(三)」
・・・竹の筆づつには、ほしかたまったのや、穂の抜けたのや沢山の絵筆がささって居る。 ○弘法様が信心なそうな。 ○妾になる女は、丁度見世物の番人のような顔をして、爺さんをとりあつかって居る。 切角いらっしゃったのだから記念に何か・・・ 宮本百合子 「「禰宜様宮田」創作メモ」
・・・そのほか、後できくと、その絵の師匠は、絵筆をとっている合間に、家をたててくれなどと云い出したので、母は警戒して絵の稽古もやめてしまったのであった。 そのことは、日本画家の一種の紊風を示す話でもあり、又母が実際家であって、利害を守るにも鋭・・・ 宮本百合子 「母」
・・・ 楽焼の絵筆を手に持ったままわざわざ立って来、床几にあがって皿にかがみこんでいる仲間をのぞき込んだ。「何だって――初秋や、名も文月の? なあんこった! だから俺は源公なんか連れて来るなあ厭だって云ったんだよ、始めっから」 別な声・・・ 宮本百合子 「百花園」
出典:青空文庫