・・・そうして右をふり仰ぐと突兀たる小浅間の熔岩塊が今にも頭上にくずれ落ちそうな絶壁をなしてそびえ立っている。その岩塊の頭を包むヴェールのように灰砂の斜面がなめらかにすそを引いてその上に細かく刺繍をおいたように、オンタデや虎杖やみね柳やいろいろの・・・ 寺田寅彦 「小浅間」
・・・港の片側には赤みを帯びた岩層のありあり見える絶壁がそばだっている。トルコの国旗を立てたランチが来て検疫が始まった。 土人の売りに来たものは絵はがき、首飾り、エジプト模様の織物、ジェルサレムの花を押したアルバム、橄欖樹で作った紙切りナイフ・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・仁西 「ニセイ」絶壁。野見 「ヌムイ」豊漁の湾。与津 「エツイ」岬。小籠 「コム」は瘤、また小山。「コムコム」か。咥内 「カウンナイ」係蹄をかけて鹿を捕る沢。石狩にもこの地名あり。加江 は岩の割目。大河内 「ウー・・・ 寺田寅彦 「土佐の地名」
・・・これから見ると、昔の人は、不完全な寺子屋の階段を手を引いてもらってやっと上がると、それから先は自分で階段を刻んだり、蔓にすがって絶壁をよじるような思いをしなければならなかった。それで大概の人は途中で思い切ってしまっただろうが、登りつめた人の・・・ 寺田寅彦 「丸善と三越」
・・・女といっしょに草の上を歩いて行くと、急に絶壁の天辺へ出た。その時女が庄太郎に、ここから飛び込んで御覧なさいと云った。底を覗いて見ると、切岸は見えるが底は見えない。庄太郎はまたパナマの帽子を脱いで再三辞退した。すると女が、もし思い切って飛び込・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・おとなしそうなので安心はしていたが、時々絶壁に臨んだ時にはもしや狭い路を踏み外しはしまいかと胆を冷やさぬでもなかった。余はハンケチの中から茱萸を出しながらポツリポツリと食うている。見下せば千仭の絶壁鳥の音も聞こえず、足下に連なる山また山南濃・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・ ○ 高い、堅い二つの絶壁の間に、子供が落ちた。目をあげて見ると、空まで真暗にキリギシが聳えて居るのが堪らなく怖い。じっと竦んで、右を見、左を眺め廻した末、子供は恐ろしさに我慢が出来なくなって、涙をこぼし泣き・・・ 宮本百合子 「傾く日」
・・・その代表的なものは井上友一郎の「絶壁」に関連する事件であった。一般の読者は自然にあの一篇の小説をよんだ。そして、なぜこの節は「晩菊」にしろ、女の肉体の老いと社会的野心或は金銭の慾のくみ合わせが、その本質の陳腐さにかかわらず、作者の興味をひく・・・ 宮本百合子 「五〇年代の文学とそこにある問題」
・・・ 澱んで居た雲が徐々に動き始めました。絶壁のように厚い雲の割目から爽やかな水浅黄の空が覗いて、洗われた日光がチラつく金粉を撒き始めます。此の軽い大気! 先生、うんざりする雨の後に、急に甦って輝く森林や湖水、其等の上に躍る日光は、何と云う・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・アジアにおいて、限りない権限をゆだねられている一人の老将軍が、朝鮮の戦線に原子兵器を使用するかしないかを決定するという世紀の絶壁に立たされたとき、彼にノーと言わせる支柱となり、彼を彼の属す国家の人民からさえも世紀の戦争犯罪人とされることから・・・ 宮本百合子 「戦争はわたしたちからすべてを奪う」
出典:青空文庫