・・・ 正月早々悲劇の絶頂が到来した。お前たちの母上は自分の病気の真相を明かされねばならぬ羽目になった。そのむずかしい役目を勤めてくれた医師が帰って後の、お前たちの母上の顔を見た私の記憶は一生涯私を駆り立てるだろう。真蒼な清々しい顔をして枕に・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・ 人畜を挙げて避難する場合に臨んでも、なお濡るるを恐れておった卑怯者も、一度溝にはまって全身水に漬っては戦士が傷ついて血を見たにも等しいものか、ここに始めて精神の興奮絶頂に達し猛然たる勇気は四肢の節々に振動した。二頭の乳牛を両腕の下に引・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・宇治の螢狩も浄瑠璃の文句にあるといえば、連れて行くし、今が登勢は仕合せの絶頂かもしれなかった。 しかし、それだけにまた何か悲しいことが近いうちに起るのではなかろうかと、あらかじめ諦めておくのは、これはいったいなんとしたことであろう。・・・ 織田作之助 「螢」
・・・ この時自分の端なく想い出したのは佐伯にいる時分、元越山の絶頂から遠く天外を望んだ時の光景である。山の上に山が重なり、秋の日の水のごとく澄んだ空気に映じて紫色に染まり、その天末に糸を引くがごとき連峰の夢よりも淡きを見て自分は一種の哀情を・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・それを母が励まして絶頂の茶屋に休んで峠餅とか言いまして茶屋の婆が一人ぎめの名物を喰わしてもらうのを楽しみに、また一呼吸の勇気を出しました。峠を越して半ほどまで来ると、すぐ下に叔母の村里が見えます、春さきは狭い谷々に霞がたなびいて画のようでご・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・次の日のまだ登らないうち立野を立って、かねての願いで、阿蘇山の白煙を目がけて霜を踏み桟橋を渡り、路を間違えたりしてようやく日中時分に絶頂近くまで登り、噴火口に達したのは一時過ぎでもあッただろうか。熊本地方は温暖であるがうえに、風のないよく晴・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・そして、銅は高価の絶頂にあった。彼等は、祖父の時代と同様に、黙々として居残り仕事をつゞけていた。 大正×年九月、A鉱山では、四千名の坑夫が罷業を決行した。女房たちは群をなして、遠く、東京のT男爵邸前に押しよせた。K鉱山でもJ鉱山でも、卑・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・けれどもそこは小児の思慮も足らなければ意地も弱いので、食物を用意しなかったため絶頂までの半分も行かぬ中に腹は減って来る気は萎えて来る、路はもとより人跡絶えているところを大概の「勘」で歩くのであるから、忍耐に忍耐しきれなくなって怖くもなって来・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・人びとの遺伝の素質や四囲の境遇の異なるのにしたがって、その年齢は一定しないが、とにかく一度、健康・知識が旺盛の絶頂に達する時代がある。換言すれば、いわゆる、「働きざかり」の時代がある。故に、道徳・知識のようなものにいたっては、ずいぶん高齢に・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・ 蓋し人が老いて益々壯んなのは寧ろ例外で、或る齢を過ぎれば心身倶に衰えて行くのみである、人々の遺伝の素質や四囲の境遇の異なるに従って、其年齢は一定しないが、兎に角一度健康・精力が旺盛の絶頂に達するの時代がある、換言すれば所謂「働き盛り」・・・ 幸徳秋水 「死生」
出典:青空文庫