・・・ ×さんの助手をしていらしった経験や縁故で記者か何かないこと?」「ええ、先生の御紹介で××堂の×さんが×へ紹介して下さいました」「駄目でしたの?」「あすこの×さんが、創作をする積りなら雑誌記者になるのは私の為にとらないっていうこ・・・ 宮本百合子 「沈丁花」
・・・それ故、長逗留をし、縁故を辿って気永く研究しようとする篤志家は兎も角、私のように貧しい予備知識と短い時間しか持ち合わせず、而も、過去の長崎が経験した文化史的活動の実証を一瞥したい者は、永山氏を訪問するらしい。その数は一年を通算すれば決して尠・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
・・・先の親方時代からの縁故で、大工、植木などの職人は勿論、井戸替、溝掃除、細々した人夫の需要も石川一手に注文が集った。纏った建築が年に幾つかある合間を、暇すぎることもなく十五年近く住みついているのであった。 五年前、桜が咲きかける時分石川は・・・ 宮本百合子 「牡丹」
・・・そういう縁故があれば、A子さんが働いて義理のお姑さんの余生をすごさしてあげなくてもよいということにもなるのでしょうが――。 A子さんが働いてその方の世話を見なければ、とかかれていますが、この働くということばは、どういう内容で云われている・・・ 宮本百合子 「三つのばあい・未亡人はどう生きたらいいか」
・・・さてその縁故をもって赤松左兵衛督殿に仕え、天正九年千石を給わり候。十三年四月赤松殿阿波国を併せ領せられ候に及びて、景一は三百石を加増せられ、阿波郡代となり、同国渭津に住居いたし、慶長の初まで勤続いたし候。慶長五年七月赤松殿石田三成に荷担いた・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」
・・・秩父在に昔から己の内に縁故のある大百姓がいるから、そこへ逃げて行こうというのだ。爺いの背中で、上野の焼けるのを見返り見返りして、田圃道を逃げたのだ。秩父在では己達を歓迎したものだ。己の事を江戸の坊様と云っていた。」「なんでも江戸の坊様に・・・ 森鴎外 「里芋の芽と不動の目」
・・・これは左伝輯釈を彦根藩で出版してくれた縁故からである。翌年七十一で旧藩の桜田邸に移り、七十三のときまた土手三番町に移った。 仲平の亡くなったのは、七十八の年の九月二十三日である。謙助と淑子との間に出来た、十歳の孫千菊が家を継いだ。千菊の・・・ 森鴎外 「安井夫人」
出典:青空文庫