・・・と越後獅子はスリッパを縫う手を休めて言った。「あ、」と固パンは頭のうしろを掻き、「そんな意味で言ったのではありません。これは、カントの例証です。僕は、現代の日本の政治界の事はちっとも知らないのです。」「しかし、多少は知っていなくちゃ・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・ 私は、森の中を縫う、荒れ果てた小径を、あてもなく彷徨い歩く。私と並んで、マリアナ・ミハイロウナが歩いている。 二人は黙って歩いている。しかし、二人の胸の中に行き交う想いは、ヴァイオリンの音になって、高く低く聞こえている。その音は、・・・ 寺田寅彦 「秋の歌」
・・・赤い服、白い袴、黒い長靴の騎手の姿が樹の間を縫うて嵐のように通り過ぎる。群を離れた犬が一疋汀へ飛んで来て草の間を嗅いでいたが、笛の音が響くと弾かれたように駆け出して群の後を追う。 猟の群が通り過ぎると、ひっそりする。沼の面が鏡のように静・・・ 寺田寅彦 「ある幻想曲の序」
・・・を形成している。伊吹山はあたかもこの関所の番兵のようにそびえているわけである。大垣米原間の鉄道線路は、この顕著な「地殻の割れ目」を縫うて敷かれてある。 山の南側は、太古の大地変の痕跡を示して、山骨を露出し、急峻な姿をしているのであるが、・・・ 寺田寅彦 「伊吹山の句について」
・・・このあとの映画で、不幸なるラート教授が陋巷の闇を縫うてとぼとぼ歩く場面でどことなく聞こえて来る汽笛だかなんだかわからぬ妙な音もやはりそういう意味で使われたものであろう。運命ののろいの声とでもいうような感じを与えるものである。 俳諧連句に・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・ これは書物で読んだことだが、樫鳥や山鳩や山鴫のような鳥類が目にも止まらぬような急速度で錯雑した樹枝の間を縫うて飛んで行くのに、決して一枚の木の葉にも翼を触れるような事はない、これは鳥の目の調節の速さと、その視覚に応じて反射的に行なわれ・・・ 寺田寅彦 「からすうりの花と蛾」
・・・ これは書物で読んだことだが、樫鳥や山鳩や山鴫のような鳥類が目にも止まらぬような急速度で錯雑した樹枝の間を縫うて飛んで行くのに、決して一枚の木の葉にも翼を触れるような事はない。これは鳥の眼の調節の速さと、その視覚に応じて反射的に行われる・・・ 寺田寅彦 「烏瓜の花と蛾」
・・・三時間を下宿に帰ろうとすれば電車で空費する時間が大部分になるので、ほど近いいろいろの美術館をたんねんに見物したり、旧ベルリンの古めかしい街区のことさらに陋巷を求めて彷徨したり、ティアガルテンの木立ちを縫うてみたり、またフリードリヒ街や、ライ・・・ 寺田寅彦 「コーヒー哲学序説」
・・・ こんな事を考えていたのであるが、今年の夏房州の千倉へ行って、海岸の強い輻射のエネルギーに充たされた空間の中を縫うて来る涼風に接したときに、暑さと涼しさとは互いに排他的な感覚ではなくて共存的な感覚であることに始めて気が付いたのである。暑・・・ 寺田寅彦 「さまよえるユダヤ人の手記より」
・・・ ――私はNセメント会社の、セメント袋を縫う女工です。私の恋人は破砕器へ石を入れることを仕事にしていました。そして十月の七日の朝、大きな石を入れる時に、その石と一緒に、クラッシャーの中へ嵌りました。 仲間の人たちは、助け出そうと・・・ 葉山嘉樹 「セメント樽の中の手紙」
出典:青空文庫