・・・こおろぎや蜘蛛や蟻やその他名も知らない昆虫の繁華な都が、虫の目から見たら天を摩するような緑色の尖塔の林の下に発展していた。 この動植物の新世代の活動している舞台は、また人間の新世代に対しても無尽蔵な驚異と歓喜の材料を提供した。子供らはよ・・・ 寺田寅彦 「芝刈り」
・・・ 私は「珍しく繁華な街へ行ったから疳でも起ったのだろう」と云った。私がこれを云うと同時に冬子は急に泣き止めた。そして何か考えてでもいるような風であったが間もなくすやすや寝入ってしまった。・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・当時都下の温泉旅館と称するものは旅客の宿泊する処ではなくして、都人の来って酒宴を張り或は遊冶郎の窃に芸妓矢場女の如き者を拉して来る処で、市中繁華の街を離れて稍幽静なる地区には必温泉場なるものがあった。則深川仲町には某楼があり、駒込追分には草・・・ 永井荷風 「上野」
・・・ ○ 東京の郊外が田園の風趣を失い、市中に劣らぬ繁華熱閙の巷となったのは重に大正十二年震災あってより後である。 田園調布の町も尾久三河島あたりの町々も震災のころにはまだ薄の穂に西風のそよいでいた野原であった・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・ 浅草公園はいつになったら昔の繁華にかえることができるのであろう。観音堂が一立斎広重の名所絵に見るような旧観に復する日は恐くもう来ないのかも知れない。 昭和十二年、わたくしが初めてオペラ館や常盤座の人たちと心易くなった時、既に震災前・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・この哀調は過去の東京にあっては繁華な下町にも、静な山の手の町にも、折に触れ時につれて、切々として人の官覚を動す力があった。しかし歳月の過るに従い、繁激なる近世的都市の騒音と燈光とは全くこの哀調を滅してしまったのである。生活の音調が変化したの・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・唯横浜正金銀行と三井物産会社とが英租界の最も繁華な河岸通にあったのだという。 美租界と英租界との間に運河があって、虹口橋とか呼ばれた橋がかかっていた。橋をわたると黄浦江の岸に臨んで洋式の公園がある。わたくしは晩餐をすましてから、会社の人・・・ 永井荷風 「十九の秋」
われわれはいかにするともおのれの生れ落ちた浮世の片隅を忘れる事は出来まい。 もしそれが賑な都会の中央であったならば、われわれは無限の光栄に包まれ感謝の涙にその眼を曇らして、一国の繁華を代表する偉大の背景を打目戍るであろう。もしまた・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・ その頃、繁華な市中からこの深川へ来るには電車の便はなし、人力車は賃銭の高いばかりか何年間とも知れず永代橋の橋普請で、近所の往来は竹矢来で狭められ、小石や砂利で車の通れぬほど荒らされていた処から、誰れも彼れも、皆汐溜から出て三十間堀の堀・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・ 震災の後わたくしは多く家にのみ引籠っているので、市中繁華の街の景況については、そのいわゆる復興の如何を見ることが稀である。それに反して向島災後の状況に関しては、少くとも一年一回来り見るところから、ややこれについて語ることが出来るような・・・ 永井荷風 「向嶋」
出典:青空文庫