・・・阿弥陀仏と大文字に書いた紙の羽織を素肌に纏い、枝つきの竹を差し物に代え、右手に三尺五寸の太刀を抜き、左手に赤紙の扇を開き、『人の若衆を盗むよりしては首を取らりょと覚悟した』と、大声に歌をうたいながら、織田殿の身内に鬼と聞えた柴田の軍勢を斬り・・・ 芥川竜之介 「おしの」
・・・恐らく古代アラビヤ語であろう、アラビヤ語は辞典がないので困るんだ、しかし、織田君はなかなか学があるね、見直したよとその学生に語ったということである。読者や批評家や聴衆というものは甘いものである。 彼等は小説家というものが宗教家や教育家や・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・これは、織田氏にとっては単なる不幸として片附け得ると思う。東京の評家というのは量見がせまいことになるが、東京の感情と大阪の感情の対立が、あの作品を中心として、無意識に争われなかったとは云い切れぬと思う。東京と大阪の感情は、永遠に氷炭相容れざ・・・ 織田作之助 「東京文壇に与う」
・・・ 私がこれまで耳にした私に関する批評の中で、一番どきんとしたのは、伊吹武彦氏の、「ええか、織田君、君に一つだけ言うぞ、君は君を模倣するなってことだ」 という一言だった。 その時、私はこう答えた。「いや僕の文学、僕の今まで・・・ 織田作之助 「私の文学」
・・・松永弾正でも織田信長でも、風流もなきにあらず、余裕もあった人であるから、皆茶讌を喜んだ。しかし大煽りに煽ったのは秀吉であった。奥州武士の伊達政宗が罪を堂ヶ島に待つ間にさえ茶事を学んだほど、茶事は行われたのである。勿論秀吉は小田原陣にも茶道宗・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・知行も絶え絶えで、如何に高貴の身分家柄でも生活さえ困難であった。織田信長より前は、禁庭御所得はどの位であったと思う。或記によればおよそ三千石ほどだったというのである。如何に簡素清冷に御暮しになったとて、三千石ではどうなるものでもない。まして・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
織田君は死ぬ気でいたのである。私は織田君の短篇小説を二つ通読した事があるきりで、また、逢ったのも、二度、それもつい一箇月ほど前に、はじめて逢ったばかりで、かくべつ深い附合いがあったわけではない。 しかし、織田君の哀しさ・・・ 太宰治 「織田君の死」
・・・羽左衛門の義経を見てやさしい色白の義経を胸に画いてみたり、阪東妻三郎が扮するところの織田信長を見て、その胴間声に圧倒され、まさに信長とはかくの如きものかと、まさか、でも、それはあり得る事かも知れない。歴史小説というものが、この頃おそろしく流・・・ 太宰治 「鉄面皮」
・・・ 先生はわが邦歴史のうちで、葡萄牙人が十六世紀に始めて日本を発見して以来織田、豊臣、徳川三氏を経て島原の内乱に至るまでの間、いわゆる西欧交通の初期とも称して然るべき時期を択んで、その部分だけを先年出版されたのである。だから順序からいうと・・・ 夏目漱石 「マードック先生の『日本歴史』」
・・・漢の高祖が丁公を戮し、清の康煕帝が明末の遺臣を擯斥し、日本にては織田信長が武田勝頼の奸臣、すなわちその主人を織田に売らんとしたる小山田義国の輩を誅し、豊臣秀吉が織田信孝の賊臣桑田彦右衛門の挙動を悦ばず、不忠不義者、世の見懲しにせよとて、これ・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
出典:青空文庫