・・・ 遠くで稲妻のする空の下を、修理の屋敷へ帰りながら、宇左衛門は悄然と腕を組んで、こんな事を何度となく胸の中で繰り返えした。 ――――――――――――――――――――――――― 修理は、翌日、宇左衛門から、佐渡・・・ 芥川竜之介 「忠義」
天王寺の別当、道命阿闍梨は、ひとりそっと床をぬけ出すと、経机の前へにじりよって、その上に乗っている法華経八の巻を灯の下に繰りひろげた。 切り燈台の火は、花のような丁字をむすびながら、明く螺鈿の経机を照らしている。耳には・・・ 芥川竜之介 「道祖問答」
・・・室に帰ってきて幾度電報を繰りひろげてみても、ほかに解釈のしようもなかった。「やっぱしこんなことだったのか。それにしてもまさかおやじとは思ってなかった。雪子のことばかし心配していたんだが、この間から気になっていた烏啼きや、ゆうべあんなつま・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・「それではいよいよ第一公式で繰りだしますか?」「まあ袴だけにしておこうよ。あまり改った風なぞして鉄道員に発見されて罰金でも取られたら、それこそたいへんだからね」 私たちはまだこんな冗談など言い合ったりしていたが、やがて時間が来て・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・「そういったわけでもないですがね、……兄さんには解らんでしょうが、遣繰り算段一方で商売してるほど苦しいものはないと思いますね。朝から晩まで金の苦労だ。だからたまにこうして遊びに出てきても、留守の間にどんな厭な事件が起きてやしないかと思う・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・ 麓の方で、なお、辻待の橇を呼ぶロシア語が繰りかえされた。 凍った空気を呼吸するたびに、鼻に疼痛を感じながら栗本は、三和土にきしる病室の扉の前にきた。 扉を押すと、不意に、温かい空気にもつれあって、クレゾールや、膿や、便器の臭い・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・またしても、おしかの愚痴が繰り返された。「うらア始めから、尋常を上ったら、もうそれより上へはやらん云うのに、お前が無理にやるせにこんなことになったんじゃ。どうもこうもならん!」 それは二月の半ば頃だった。谷間を吹きおろしてくる嵐は寒・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・とある家にて百万遍の念仏会を催し、爺嫗打交りて大なる珠数を繰りながら名号唱えたる、特に声さえ沸ゆるかと聞えたり。 上野に着きて少時待つほどに二時となりて汽車は走り出でぬ。熱し熱しと人もいい我も喞つ。鴻巣上尾あたりは、暑気に倦めるあまりの・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・出たくないかときくと、なアに長い欧州航路を上陸をせずに、そのまゝ二三度繰りかえしていると思えば何んでもない、と云って笑った。「アパアト住い」と云い、又この「欧州航路」と云い、こゝにいるどの赤い着物も、そんなことを自分の家にいるよりも何ん・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・先生は鼻眼鏡を隆い鼻のところに宛行って、過ぎ去った自分の生活の香気を嗅ぐようにその古い洋書を繰りひろげて見て、それから高瀬にくれた。 正木大尉は幹事室の方に見えた。先生と高瀬と一緒にその室へ行った時は、大尉は隅のところに大きな机を控えて・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
出典:青空文庫