・・・「何もお光さんで見りゃそんな気があって言ったんじゃあるめえが、俺がいよいよ横浜へ立つという朝、出がけにお前の家へ寄ったら、お前が繰り返し待ってるからと言ってくれた、それを俺はどんなに胸に刻んで出かけたろう! けれど、考えて見りゃ誰だって・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ 警官は斯う繰返してものの一分もじっと彼の顔を視つめていたが、「……忘れたか! 僕だよ! ……忘れたかね? ウヽ? ……」 警官は斯う云って、初めて相好を崩し始めた。「あ君か! 僕はまた何物かと思って吃驚しちゃったよ。それに・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・その変化を見極めようとする眼はいつもその尽きない生成と消滅のなかへ溺れ込んでしまい、ただそればかりを繰り返しているうちに、不思議な恐怖に似た感情がだんだん胸へ昂まって来る。その感情は喉を詰らせるようになって来、身体からは平衝の感じがだんだん・・・ 梶井基次郎 「蒼穹」
・・・ 親子、国色、東京のもの、と辰弥は胸に繰り返しつつ浴場へと行きぬ。あとより来るは布袋殿なり。上手に一つ新しく設らえたる浴室の、右と左の開き扉を引き開けて、二人はひとしく中に入りぬ。心も置かず話しかくる辰弥の声は直ちに聞えたり。 ほど・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・何度となく繰り返されます。繰り返しても繰り返しても飽くを知らぬのは、またこの懐旧談で、浮き世の波にもまれて、眉目のどこかにか苦闘のあとを残すかたがたも、「あの時分」の話になると、われ知らず、青春の血潮が今ひとたびそのほおにのぼり、目もかがや・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・と、叔父は繰り返した。 おきのは、叔父の注意に従って、息子のことを訊ねられると、傘屋へ奉公に出したと云った。併し、村の人々は、彼女の言葉を本当にしなかった。でも、頑固に、「いいえいな、家に、市の学校へやったりするかいしょうがあるもんかい・・・ 黒島伝治 「電報」
・・・と古えの賤の苧環繰り返して、さすがに今更今昔の感に堪えざるもののごとく我れと我が額に手を加えたが、すぐにその手を伸して更に一盃を傾けた。「そうこうするうち次郎坊の方をふとした過失で毀してしまった。アア、二箇揃っていたものをいかに過失・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・と、その男は自分の家を出ると直に一膳めしの看板をかけた飲食店へ入ったという。其時自分は男の言葉を思出して、「まだ朝飯も食べません。」と、繰返して笑った。定めし男の方でも自分の言葉を思出して「説法は有難いが、朝飯の方が尚有難い。」とかなんとか・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・身のこの不安を、友人に知らせたくなかったので、懸命に佐吉さんの人柄の良さを語り、三島に着いたらしめたものだ、三島に着いたらしめたものだと、自分でもイヤになる程、その間の抜けた無意味な言葉を幾度も幾度も繰返して言うのでした。あらかじめ佐吉さん・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・を過ってこわしたある日本人が、主婦に対して色々詫言を云うのを、主婦の方では極めて機嫌よく「いや何でもありません、ビッテ、シェーン」を繰返していた。そうしてその人が永い滞在の後に、なつかしい想いを残してその下宿を去る日になって、主婦の方から差・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
出典:青空文庫