・・・ 口ギタなく罵る叫びは、向うの山壁にこだました。そして、同じ声が、遠くから、又、帰って来た。「貧乏たれの餓鬼らめに限って、くそッ! どうもこうもならん! くそッ!」 番人は、トシエの親爺に日給十八銭で、松茸の時期だけ傭われていた・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・とあべこべに健全を以て任ずる人達を、罵るほどの意気で立っていた。北村君が最初の自殺を企てる前、病いにある床の上に震えながらも、斯ういう豪語を放っていたという事は、如何にも心のひるまなかった証拠であると思う。文学界へ書くようになってからの北村・・・ 島崎藤村 「北村透谷の短き一生」
・・・こんな男は、自分をあらわに罵る人に心服し奉仕し、自分を優しくいたわる人には、えらく威張って蹴散らして、そうしてすましているものである。男爵は、けれども、その夜は、流石に自分の故郷のことなど思い出され、床の中で転輾した。 ――私は、やっぱ・・・ 太宰治 「花燭」
・・・葡萄酒のブランデーとかいう珍しい飲物をチビチビやって、そうして酒癖もよくないようで、お酌の女をずいぶんしつこく罵るのでした。 「お前の顔は、どう見たって狐以外のものではないんだ。よく覚えて置くがええぞ。ケツネのつらは、口がとがって髭があ・・・ 太宰治 「貨幣」
・・・ひとを平気でからかうのは、卑劣な心情の証拠だ。罵るなら、ちゃんと罵るがいい」「からかってやしないよ」しずかにそう応えて、胸のポケットからむらさき色のハンケチをとり出し、頸のまわりの汗をのろのろ拭きはじめた。「あああ」馬場は溜息ついて・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・かく口汚く罵るものの先生は何も新しい女権主義を根本から否定しているためではない。婦人参政権の問題なぞもむしろ当然の事としている位である。しかし人間は総じて男女の別なく、いかほど正しい当然な事でも、それをば正当なりと自分からは主張せずに出しゃ・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・酔うて人を罵るに至っては悪事である。烟草を喫するのもまた徒事。書を購って読まざるもまた徒事である。読んで後記憶せざればこれもまた徒事にひとしい。しかしながら為政者のなす所を見るに、酒と烟草とには税を課してこれを人に買わせている。法律は無益の・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・折から廻廊を遠く人の踏む音がして、罵る如き幾多の声は次第にアーサーの室に逼る。 入口に掛けたる厚き幕は総に絞らず。長く垂れて床をかくす。かの足音の戸の近くしばらくとまる時、垂れたる幕を二つに裂いて、髪多く丈高き一人の男があらわれた。モー・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・過ぐる日の饗筵に、卓上の酒尽きて、居並ぶ人の舌の根のしどろに緩む時、首席を占むる隣り合せの二人が、何事か声高に罵る声を聞かぬ者はなかった。「月に吠ゆる狼の……ほざくは」と手にしたる盃を地に抛って、夜鴉の城主は立ち上る。盃の底に残れる赤き酒の・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・と握手をし、「私の愛する親友!」と云おうとして居る。然るにその瞬間、不意に例の反対衝動が起って来る。そして逆に、「この馬鹿野郎!」と罵る言葉が、不意に口をついて出て来るのである。しかもこの衝動は、避けがたく抑えることが出来ないのである。・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
出典:青空文庫