・・・友は中庭の美事なる薔薇数輪を手折りて、手土産に与えんとするを、この主人の固辞して曰く、野菜ならばもらってもよい。以て全豹を推すべし。かの剣聖が武具の他の一切の道具をしりぞけし一すじの精進の心と似て非なること明白なり。なおまた、この男には当分・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・やっぱり、ふたりの黒い老人のからだに、守られて、たからもののように美事に光って、じっとしている。 あの少女は、よかった。いいものを見た、とこっそり胸の秘密の箱の中に隠して置いた。 七月、暑熱は極点に達した。畳が、かっかっと熱いので、・・・ 太宰治 「美少女」
・・・私の家にも、美事な鮎を、お土産に持って来てくれた。伊豆のさかなやから買って来たという事を、かれは、卑怯な言いかたで告白した。「これくらいの鮎を、わけなく釣っている人もあるにはあるが、僕は釣らなかった。これくらいの鮎は、てれくさくて釣れるもの・・・ 太宰治 「令嬢アユ」
・・・こういう犯罪が三郎の嘘の花をいよいよ美事にひらかせた。ひとに嘘をつき、おのれに嘘をつき、ひたすら自分の犯罪をこの世の中から消し、またおのれの心から消そうと努め、長ずるに及んでいよいよ嘘のかたまりになった。 二十歳の三郎は神妙な内気な青年・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・ ラプンツェルの髪の毛は、婆さんに毎日すいてもらっているお蔭で、まるで黄金をつむいだように美事に光り、脚の辺まで伸びていました。顔は天使のように、ふっくりして、黄色い薔薇の感じでありました。唇は小さく莓のように真赤でした。目は黒く澄んで・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・踵にゴムの着いた、編上げの恰好のいい美事なのであった。少なくも私の知っている知識階級の家庭の子供の七十プロセント以上はこれよりもずっと悪いか、あるいは古ぼけた靴をはいているような気がする。 四 馬が日射病にか・・・ 寺田寅彦 「鑢屑」
・・・「体裁だけはすこぶる美事なものさ。しかし内心はあの下女よりよっぽどすれているんだから、いやになってしまう」「そうかね。じゃ、僕もこれから、ちと剛健党の御仲間入りをやろうかな」「無論の事さ。だからまず第一着にあした六時に起きて……・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・男子の不品行は既に一般の習慣となりて、人の怪しむ者なしというといえども、人類天性の本心において、自ら犯すその不品行を人間の美事として誇る者はあるべからず。否百人は百人、千人は千人、皆これを心の底に愧じざるものなし。内心にこれを愧じて外面に傲・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・ のびにのびた髪の毛が、白い地に美事な巻毛になって居て、絹の中に真綿を入れてくくった様な耳朶の後には、あまった髪の端が飾りの様に拡がって居た。 華やかな衣の中で、長閑らしく、首を動かしたり、咲いた許りの花の様な手を、何か欲しげに袖か・・・ 宮本百合子 「暁光」
・・・そのとき、夫人は大変よろこんで、実に美事な白藤の大鉢を祝って下すった。 房々と白い花房を垂れ、日向でほのかに匂う三月の白藤の花の姿は、その後間もなく時代的な波瀾の裡におかれた私たち夫婦の生活の首途に、今も清々として薫っている。 その・・・ 宮本百合子 「白藤」
出典:青空文庫