・・・瀬波に翻える状に、背尾を刎ねた、皿に余る尺ばかりな塩焼は、まったく美味である。そこで、讃歎すると、上流、五里七里の山奥から活のまま徒歩で運んで来る、山爺の一人なぞは、七十を越した、もう五十年余りの馴染だ、と女中が言った。してみると、おなじ獺・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・ただ白湯を打かけてザクザク流し込むのだが、それが如何にも美味そうであった。 お源は亭主のこの所為に気を呑れて黙って見ていたが山盛五六杯食って、未だ止めそうもないので呆れもし、可笑くもなり「お前さんそんなにお腹が空いたの」 磯は更・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・二人は一寸と立てみていた、「お美味そうねエ」とお富は笑って言った。「明朝のを今製造えるのでしょうねエ」とお秀も笑うて行こうとする、「ちょっと御待ちなさいよ」とお富は止めて、戸外から、「その麺包を少し下さいな。」 三十計り・・・ 国木田独歩 「二少女」
・・・桂は一度西国立志編の美味を知って以後は、何度この書を読んだかしれない、ほとんど暗誦するほど熟読したらしい、そして今日といえどもつねにこれを座右に置いている。 げに桂正作は活きた西国立志編といってよかろう、桂自身でもそういっている。「・・・ 国木田独歩 「非凡なる凡人」
・・・さまざまな果実の美味は果実の種類によって性質的に異なり、同一の美味が主観の感覚によってさまざまに感じられるのではない。美味そのものの相違である。その如く「純潔な」「臆病な」「気高い」「罪深い」等の倫理的価値もそのものとして先験的に存在するの・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・「なぜでもいいわい、ただ美味えということよ。「オヤ、おハムキかエ、馬鹿らしい。「そうじゃあ無えが忘れねえと云うんだい、こう煎じつめた揚句に汝の身の皮を飲んでるのだもの。「弱いことをお云いだねエ、がらに無いヨ。「だってこう・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・その地獄の日々より三年まえ、顔あわすより早く罵詈雑言、はじめは、しかつめらしくプウシキンの怪談趣味について、ドオデエの通俗性について、さらに一転、斎藤実と岡田啓介に就いて人物月旦、再転しては、バナナは美味なりや、否や、三転しては、一女流作家・・・ 太宰治 「喝采」
・・・パリの朝食のコーヒーとあの棍棒を輪切りにしたパンは周知の美味である。ギャルソンのステファンが、「ヴォアラー・ムシウ」と言って小卓にのせて行く朝食は一日じゅうの大なる楽しみであったことを思い出す。マデレーヌの近くの一流のカフェーで飲んだコーヒ・・・ 寺田寅彦 「コーヒー哲学序説」
・・・の正月ある人に呼ばれて東京一流の料亭で御馳走になったときに味わった雑煮は粟餅に松露や蓴菜や青菜や色々のものを添えた白味噌仕立てのものであったが、これは生れてから以来食った雑煮のうちでおそらく一番上等で美味な雑煮であったろうと思われる。それだ・・・ 寺田寅彦 「新年雑俎」
・・・よけいな調味で本来の味を掩蔽するような無用の手数をかけないで、その新鮮な材料本来の美味を、それに含まれた貴重なビタミンとともに、そこなわれない自然のままで摂取するほうがいちばん快適有効であることを知っているのである。 中央アジアの旅行中・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
出典:青空文庫