・・・僕はこう言う彼女の姿に美醜や好悪を感ずるよりも妙に痛切な矛盾を感じた。彼女は実際この部屋の空気と、――殊に鳥籠の中の栗鼠とは吊り合わない存在に違いなかった。 彼女はちょっと目礼したぎり、躍るように譚の側へ歩み寄った。しかも彼の隣に坐ると・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・しかし作品そのものを見れば、作品の美醜の一半は芸術家の意識を超越した神秘の世界に存している。一半? 或は大半と云っても好い。 我我は妙に問うに落ちず、語るに落ちるものである。我我の魂はおのずから作品に露るることを免れない。一刀一拝した古・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・時々刻々、美醜さまざまの想念が、胸に浮んでは消え、浮んでは消えて、そうして人は生きています。その場合に、醜いものだけを正体として信じ、美しい願望も人間には在るという事を忘れているのは、間違いであります。念々と動く心の像は、すべて「事実」とし・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・ 容貌のタイプということと美醜とは必ずしも一致しないようである。たとえばキャサリン・ヘプバーン型の美人と醜婦を一人ずつ捜し出すのなどははなはだ容易であろう。 食堂の女給の制服は腕を露出したのが多い。必然の結果として食物を食卓に並べる・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・そして柔らかく温かに湿った湯気の中に動いている人の顔にも、鏡の前に裸で立ちはだかって頬を膨らしてみたり腹を撫でてみたりしている人の顔にも、湯槽の水面に浮んでいるデモクラチックな顔にも、美醜老若の別なく、一様に淡く寛舒の表情が浮んでいる。・・・ 寺田寅彦 「電車と風呂」
・・・ 顔の美醜は到底文字では現わせないものらしい。これを現わす解析法も幾何学もまだ発見されていない。まず現代でいちばん実用的な描写法としては世界的に知れ渡った映画スターなどのいろいろなタイプを借りて記載するのが近道であろうかと思われる。・・・ 寺田寅彦 「破片」
・・・かったら丈夫玉砕瓦全を恥ずとか何とか珍汾漢の気きえんを吐こうと暗に下拵に黙っている、とそれならこれにしようと、いとも見苦しかりける男乗をぞあてがいける、思えらく能者筆を択ばず、どうせ落ちるのだから車の美醜などは構うものかと、あてがわれたる車・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・ 浮世風呂に浮世の垢を流し合うように、別世界は別世界相応の話柄の種も尽きぬものか、朋輩の悪評が手始めで、内所の後評、廓内の評判、検査場で見た他楼の花魁の美醜、検査医の男振りまで評し尽して、後連とさし代われば、さし代ッたなりに同じ話柄の種・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・その人が自分の社会的・階級的人生を発見したからこそ、そこにおこるすべてのことの人間らしい美醜、悲喜の歴史的意味を知り、自分をもある時代の階級的人間の一典型として、客観的に描き出してゆく歓喜を理解するのである。 わたしたちの人生と文学の偶・・・ 宮本百合子 「新しい文学の誕生」
・・・ 私の心の驚いたり感じさせられたりする事は、善悪の区別もなく、美醜の見境えもないので、私の毎日は何と云う動かされどうしな事でしょう。 或る時は身の置き所のない程自分が小さく見すぼらしいものになったり、そうかと思えば非常に拡がった自分・・・ 宮本百合子 「動かされないと云う事」
出典:青空文庫