・・・居った、食事と家庭問題食事と社会問題等に就て何等の研究もない、寧ろ食事を談ずるなどは、士君子の恥ずる処であった、恐らくは今日でも大問題になって居るまい、世人は食事の問題と云えば衛生上の事にあらざれば、美食の娯楽を満足せしむる目的に過ぎないよ・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・とうとう明神下の神田川まで草臥れ足を引摺って来たのが九時過ぎで、二階へ通って例の通りに待たされるのが常より一層待遠しかったが「こうして腹を空かして置くのが美食法の秘訣だ、」と、やがて持って来た大串の脂ッこい奴をペロペロと五皿平らげた。 ・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・そしていつかそれに気がついてみると、栄養や安静が彼に浸潤した、美食に対する嗜好や安逸や怯懦は、彼から生きていこうとする意志をだんだんに持ち去っていた。しかし彼は幾度も心を取り直して生活に向かっていった。が、彼の思索や行為はいつの間にか佯りの・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・十二、身一つに美食を好まず。十三、旧き道具を所持せず。十四、我身にとり物を忌むことなし。十五、兵具は格別、余の道具たしなまず。十六、道にあたって死を厭わず。十七、老後財宝所領に心なし。十八、神仏を尊み神仏を頼まず・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・例えば当時の富人の豪奢の実況から市井裏店の風景、質屋の出入り、牢屋の生活といったようなものが窺われ、美食家や異食家がどんなものを嗜んだかが分かり、瑣末なようなことでは、例えば、万年暦、石筆などの存在が知られ、江戸で蝿取蜘蛛を愛玩した事実が窺・・・ 寺田寅彦 「西鶴と科学」
・・・カッフェーの料理は殆ど口には入れられないほど粗悪であるが、然し僕は強いて美食を欲するものでもない。毒にもならずして腹のはるものならば大抵は我慢をして食う。若し自分の口に適したものが是非にもほしいと思う時には、僕は人の手を借らずに自分で料理を・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・夫妻同居、夫が妻を扶養するは当然の義務なるに、其妻たる者が僅に美衣美食の賄を給せられて、自身に大切なる本来の権利を放棄せんとす、愚に非ずして何ぞや。故に夫婦苦楽を共にするの一事は努ゆめゆめ等閑にす可らず、苦にも楽にも私に之を隠して之を共にせ・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・田舎の食物の粗なるは勿論のことなれども、田舎の物を食して田舎風に運動遊戯すれば、身体に利する所は都会の美食に勝るものあるが故なり。左れば小児を丈夫に養育せんとならば、仮令い巨万の富あるも先ず其家を八瀬大原にして、之に生理学問上の注意を加う可・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・、 トルストイの性慾論中より、「愛する者とのみ結合しようとするのは――結婚に依ると依らざるの別なく、よし又詩的に小説的に理想化せられ得るとしても――多くの人々が立派なものと思って居る豊富な美食を求めようとする目的と同じく価値のな・・・ 宮本百合子 「結婚に関し、レークジョージ、雑」
・・・そういう女の甘さや感傷が、自身は暖い炉辺で慰問靴下をあみつつ、美食家のエネルギーで戦線の英雄的行動をしゃべり、スリルを味っている女たちに対する憎悪とともに、どのくらい深刻に思慮ある男、現実の艱苦の中にある男の感情を索漠とさせるものであるか。・・・ 宮本百合子 「祭日ならざる日々」
出典:青空文庫