・・・この景色を見た自分たちは、さすがに皆一種の羞恥を感じて、しばらくの間はひっそりと、賑な笑い声を絶ってしまった。が、その中で丹波先生だけは、ただ、口を噤むべく余りに恐縮と狼狽とを重ねたからでもあったろう。「あの帽子が古物だぜ」と、云いかけた舌・・・ 芥川竜之介 「毛利先生」
・・・胸から下の肢体は感触を失ったかと思うほどこわばって、その存在を思う事にすら、消え入るばかりの羞恥を覚えた。毛の根は汗ばんだ。その美しい暗緑の瞳は、涙よりももっと輝く分泌物の中に浮き漂った。軽く開いた唇は熱い息気のためにかさかさに乾いた。油汗・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・僕は裁判をしてこっちが羞恥を感じて赤面したが、女はシャアシャアしたもんで、平気でベラベラ白状した。職業的堕落婦人よりは一層厚顔だ。口の先では済まない事をした、申訳がありませんといったが、腹の底では何を思ってるか知れたもんじゃない。良心がまる・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・年とって、感情が涸渇し、たゞ利害のみに敏く、羞恥をすら感ぜぬようになって、醜悪の姿をいつまでも晒らすものでない。こう真に、考えたことも、やはり、当時であったのでした。 たとえ、其の人の事業は、年をとってから完成するものだとはいうものゝ、・・・ 小川未明 「机前に空しく過ぐ」
・・・この不安の内には恐怖も羞恥も籠っていた。 眼前にまざまざと今日の事が浮んで来る、見下した旦那の顔が判然出て来る、そしてテレ隠しに炭を手玉に取った時のことを思うと顔から火が出るように感じた。「真実にどうしたんだろう」とお源は思わず叫ん・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・と言う主人の少女の顔は羞恥そうな笑のうちにも何となく不穏のところが見透かされた。「私の口から言い悪くいけれど……貴姉大概解かっていましょう……」「私が妾になるとか成ったとかいう事なんでしょう。」 と言った主人の少女の声は震えて居・・・ 国木田独歩 「二少女」
・・・かれは飲み干して自分の顔を見たが、野卑な喜びの色がその満面に動いたと思うとたちまち羞恥の影がさっと射して、視線を転じてまた自分を見て、また転じた。自分はもうその様子を視ていられなくなった。『大ぶんお歳がゆきましたね、』思わず同情の言葉が・・・ 国木田独歩 「まぼろし」
・・・若き兵士たり、それから数行の文章の奥底に潜んで在る不安、乃至は、極度なる羞恥感、自意識の過重、或る一階級への義心の片鱗、これらは、すべて、銭湯のペンキ絵くらいに、徹頭徹尾、月並のものである。私は、これより数段、巧みに言い表わされたる、これら・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・彼のいやらしい親切に対する憤怒よりも、おのれの無智に対する羞恥の念がたまらなかった。「泣くのはやめろよ。どうにもならぬ。」彼は私の背をかるくたたきながら、ものうげに呟いた。「あの石塀の上に細長い木の札が立てられているだろう? おれたちに・・・ 太宰治 「猿ヶ島」
・・・から出てしまったのであるが、宿へ帰って、少しずつ酔のさめるにつれ、先刻の私の間抜けとも阿呆らしいともなんとも言いようのない狂態に対する羞恥と悔恨の念で消えもいりたい思いをした。湯槽にからだを沈ませて、ぱちゃぱちゃと湯をはねかえらせて見ても、・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
出典:青空文庫