・・・葭簾囲いの着もの脱ぎ場にも、――そこには茶色の犬が一匹、細かい羽虫の群れを追いかけていた。が、それも僕等を見ると、すぐに向うへ逃げて行ってしまった。 僕は下駄だけは脱いだものの、とうてい泳ぐ気にはなれなかった。しかしMはいつのまにか湯帷・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・微粒子のような羽虫がそんなふうに群がっている。そこへ日が当ったのである。 私は開け放った窓のなかで半裸体の身体を晒しながら、そうした内湾のように賑やかな溪の空を眺めている。すると彼らがやって来るのである。彼らのやって来るのは私の部屋の天・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・たぶん羽虫が飛ぶのであろう折り折り小さな波紋が消えてはまた現われている、お梅はじっと水を見ていたが、ついに『幸ちゃんの話は何でした。』『神田の叔父の方へしばらく往っていたいがどうしたもんだろうと相談に来たのサ。』『先生何と言って・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・自分たちもこの画中の人に加わって欄に倚って月を眺めていると、月は緩るやかに流るる水面に澄んで映っている。羽虫が水を摶つごとに細紋起きてしばらく月の面に小皺がよるばかり。流れは林の間をくねって出てきたり、また林の間に半円を描いて隠れてしまう。・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・は都にて開かるる洋画展覧会などの出品の中にてよく見受くる田舎町の一つなれば、茅屋と瓦屋と打ち雑りたる、理髪所の隣に万屋あり、万屋の隣に農家あり、農家の前には莚敷きて童と猫と仲よく遊べる、茅屋の軒先には羽虫の群れ輪をなして飛ぶが夕日に映りたる・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・ 朝生まれて晩に死ぬる小さな羽虫があって、それの最も自然な羽ばたきが一秒に千回であるとする。するとこの虫にとってはわれわれの一日は彼らの千日に当たるのかもしれない。 森の茂みをくぐり飛ぶ小鳥が決して木の葉一枚にも触れない。あの敏捷さ・・・ 寺田寅彦 「空想日録」
・・・その上をかすめて時々何かしら小さな羽虫が銀色の光を放って流星のように飛んで行く。 それよりも美しいのは、夏の夜がふけて家内も寝静まったころ、読み疲れた書物をたたんで縁側へ出ると、机の上につるした電燈の光は明け放された雨戸のすきまを越えて・・・ 寺田寅彦 「芝刈り」
・・・ ヘルムホルツは薄暮に眼前を横ぎった羽虫を見て遠くの空をかける大鵬と思い誤ったという経験をしるしており、また幼時遠方の寺院の塔の回廊に働いている職人を見たときに、あの人形を取ってくれと言っておかあさんにせがんだことがあると言っている。・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・ そしてちょうど星が砕けて散るときのように、からだがばらばらになって一本ずつの銀毛はまっしろに光り、羽虫のように北の方へ飛んで行きました。そしてひばりは鉄砲玉のように空へとびあがって鋭いみじかい歌をほんのちょっと歌ったのでした。 私・・・ 宮沢賢治 「おきなぐさ」
・・・それから青や紺や黄やいろいろの色硝子でこしらえた羽虫が波になったり渦巻になったりきらきらきらきら飛びめぐりました。 うしろのまっ黒なびろうどの幕が両方にさっと開いて顔の紺色な髪の火のようなきれいな女の子がまっ白なひらひらしたきものに宝石・・・ 宮沢賢治 「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」
出典:青空文庫