・・・ これはその側の卓子の上に、紅茶の道具を片づけている召使いの老女の言葉であった。「ああ、今夜もまた寂しいわね。」「せめて奥様が御病気でないと、心丈夫でございますけれども――」「それでも私の病気はね、ただ神経が疲れているのだっ・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・ 渠が詣でた時、蝋燭が二挺灯って、その腹帯台の傍に、老女が一人、若い円髷のと睦じそうに拝んでいた。 しばらくして、戸口でまた珠数を揉頂いて、老女が前に、その二人が帰ったあとは、本堂、脇堂にも誰も居ない。 ここに註しておく。都会に・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・此家から老女の声と若い女の声とが聞えた。老女の声は低かった。若い女の声は激していた。『早く此児は死んでしまえばいゝのだ。』と若い女の声が言った。つづいて子供の泣く声がした。ある日の正午頃男が来て大きな声で話をしていた。男は帰る時に、・・・ 小川未明 「ある日の午後」
・・・仏の顔も二度三度の放浪小説のスタイルは、仏壇の片隅にしまってもいいくらい蘇苔が生えている筈だのに、世相が浮浪者を増やしたおかげで、時を得たりと老女の厚化粧は醜い。 そう思うと、もう私の筆は進まなかったが、才能の乏しさは世相を生かす新しい・・・ 織田作之助 「世相」
・・・言わば白粉ははげ付け髷はとれた世にもあさましい老女の化粧を白昼烈日のもとにさらしたようなものであったのである。 これに反してまた、世にも美しいながめは雪の降る宵の銀座の灯の町である。あらゆる種類の電気照明は積雪飛雪の街頭にその最大能率を・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・など膝つき合わす老女にいたわられたる旅の有り難さ。修禅寺に詣でて蒲の冠者の墓地死所聞きなどす。村はずれの小道を畑づたいにやや山手の方へのぼり行けば四坪ばかり地を囲うて中に範頼の霊を祭りたる小祠とその側に立てたる石碑とのみ空しく秋にあれて中々・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・そして、良人の意見に賛成して散々気の毒な老女のぽんち姿を描いて笑い興じた。けれども、笑うだけ笑って仕舞うと、彼女は、足をぶらぶら振るのもやめ困った顔で沈んで仕舞った。「もうじき大晦日だのにね。――どうするおつもり?」 彼女は、歎息ま・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・ 夢 三 だらだら坂をのぼる 細長い廊下のようなごたごたしたところを抜けて、職工の居るところへゆく、老女、新聞やなにか散って居るのをそのまま、ひどい埃を立てて床をはいて居る。傍に一人男が何かして居るのにかまわず。いや・・・ 宮本百合子 「一九二七年春より」
・・・ 八十の老女に云ったとて、判ることでもなし、自分は只、微笑した。それでも満足されないと「いつかゆっくり行きますから、安心していらっしゃい」と云う。 けれども、母が、自分の胸一杯にある感じに負け、会田さんに万事の輪廓を話してか・・・ 宮本百合子 「二つの家を繋ぐ回想」
・・・隣の尺八氏のところへ、客あり。老女。三味線をとりよせて、合奏す。六段をやるのだがテントンシャンとなだらかにゆかず、三味線も尺八も、互にもたれあって、テン、トン、シャン、とやっとこ進む。大いに愛嬌があって微笑した。けれども困るので、尺八氏と相・・・ 宮本百合子 「湯ヶ島の数日」
出典:青空文庫