・・・ 生命の法則についての英知があって、かつ現代の新生活の現実と機微とを知っている男女はこの二つの見方を一つの生活に融かして、夫婦道というものを考えばならぬ。 人間が、文化と、精神と霊とを持っているのでなかったら夫婦道というものは初めか・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・彼はそう考えた。強いて押し黙っていた。 一時間ばかり椅子でボンヤリしているうちに、伍長と、も一人の上等兵とは、兵舎で私の私物箱から背嚢、寝台、藁布団などを悉く引っくりかえして、くまなく調べていた。そればかりでなく、ほかの看護卒の、私物箱・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・席上鋳金に美術を求める、そんな分らない校長ではないと思っていたが、校長には校長の考えもあろうし、鋳金はたとい蝋型にせよ純粋美術とは云い難いが、また校長には把掖誘導啓発抜擢、あらゆる恩を受けているので、実はイヤだナアと思ったけれども枉げて従っ・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・自分にはわからぬが、しかし、今のわたくしは、人間の死生、ことに死刑については、ほぼ左のような考えをもっている。 二 万物はみなながれさる、とへラクレイトスもいった。諸行は無常、宇宙は変化の連続である。 その実・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・ 汽車に乗って遥々と出てきたのだが、然し母親が考えていたよりも以上に、監獄のコンクリートの塀が厚くて、高かった。それは母親の気をテン倒させるに充分だった。しかもその中で、あの親孝行ものゝ健吉が「赤い」着物をきて、高い小さい鉄棒のはまった・・・ 小林多喜二 「争われない事実」
・・・只宅にばかり居まして伎の事のみを考えて居りますから貯えとてもありません。お大名から呼びに来ても往きません。贔屓のお屋敷から迎いを受けても参りません。其の癖随分贅沢を致しますから段々貧に迫りますので、御新造が心配をいたします。なれども当人は平・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・あの長い漂泊の苦痛を考えると、よく自分のようなものが斯うして今日まで生きながらえて来たと思われる位。破船――というより外に自分の生涯を譬える言葉は見当らない。それがこの山の上の港へ漂い着いて、世離れた測候所の技手をして、雲の形を眺めて暮す身・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・これを蹂躙する勇気はない。つまりぐずぐずとして一種の因襲力に引きずられて行く。これを考えると、自分らの実行生活が有している最後の筌蹄は、ただ一語、「諦め」ということに過ぎない。その諦めもほんの上っ面のもので、衷心に存する不平や疑惑を拭い去る・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・誰も誰も自分の事を考えている。自分の不平を噛み潰しているのである。みな頭と肩との上に重荷を載せられているような圧を感じている。それだからその圧を加えられて、ぽうっとしてよろめきながら歩いているのである。そんな風であるから、どうして外の人の事・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・母親は女の言った言葉をいろいろに考えて、「やっぱり、かさかさのパンではいやなのだろう。今度は焼かないパンをもってお出でよ。」と、おしえました。それでギンは、そのあくる日は、パン粉の、こねたばかりで焼かないままのをもって、まだ日も出ない先・・・ 鈴木三重吉 「湖水の女」
出典:青空文庫