・・・ 事実を云えば、その時の彼は、単に自分たちのした事の影響が、意外な所まで波動したのに、聊か驚いただけなのである。が、ふだんの彼なら、藤左衛門や忠左衛門と共に、笑ってすませる筈のこの事実が、その時の満足しきった彼の心には、ふと不快な種を蒔・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・正純も弓矢の故実だけは聊かわきまえたつもりでおります。直之の首は一つ首でもあり、目を見開いておればこそ、御実検をお断り申し上げました。それを強いてお目通りへ持って参れと御意なさるのはその好い証拠ではございませぬか?」 家康は花鳥の襖越し・・・ 芥川竜之介 「古千屋」
・・・ 客は斑白の老紳士で、血色のいい両頬には、聊か西洋人じみた疎な髯を貯えている。これはつんと尖った鼻の先へ、鉄縁の鼻眼鏡をかけたので、殊にそう云う感じを深くさせた。着ているのは黒の背広であるが、遠方から一見した所でも、決して上等な洋服では・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・唯聊か時流の外に新例を求むるのに急だったのである。その評論家の揶揄を受けたのは、――兎に角あらゆる先覚者は常に薄命に甘んじなければならぬ。 制限 天才もそれぞれ乗り越え難い或制限に拘束されている。その制限を発見することは・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・態に似合わず悠然と落着済まして、聊か権高に見える処は、土地の士族の子孫らしい。で、その尻上がりの「ですか」を饒舌って、時々じろじろと下目に見越すのが、田舎漢だと侮るなと言う態度の、それが明かに窓から見透く。郵便局員貴下、御心安かれ、受取人の・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ ――あら、看板ですわ―― いや、正のものの膝栗毛で、聊か気分なるものを漾わせ過ぎた形がある。が、此処で早速頬張って、吸子の手酌で飲った処は、我ながら頼母しい。 ふと小用場を借りたくなった。 中戸を開けて、土間をずッと奥へ、・・・ 泉鏡花 「雛がたり」
・・・きものではない、変手古なものではない、又軽薄極まる形式を主としたものではない、形の通りの道具がなければ出来ないというものでもない、利休は法あるも茶にあらず法なきも茶にあらずと云ってある位である、されば聊かの用意だにあれば、日常の食事を茶の湯・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・実際二人はそれほどに堕落した訣でないから、頭からそうときめられては、聊か妙な心持がする。さりとて弁解の出来ることでもなし、また強いことを言える資格も実は無いのである。これが一ヶ月前であったらば、それはお母さん御無理だ、学校へ行くのは望みであ・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・予も聊かきまりが悪くなったから、御馳走して貰って悪口いうちゃ済まんなあ。失敬々々。こう云ってお茶を濁す。穏かな岡村も顔に冷かな苦笑を湛えて、相変らず元気で結構さ。僕の様に田舎に居っちゃ、君の所謂時代の中心から離れて居るからな、何も解らんよ。・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・生れて初めて外科の手術を受けたとのことで、「実に聊かな手術なのに……」と苦笑して、その手術の時のことを話された。 軽い手術だから医者は局部注射の必要もないと言ったが、夏目さんは強いてコカエン注射をしてもらった上に、いざ手術に取りかかると・・・ 内田魯庵 「温情の裕かな夏目さん」
出典:青空文庫