・・・わたしの信ずるところによれば、或は柱頭の苦行を喜び、或は火裏の殉教を愛した基督教の聖人たちは大抵マソヒズムに罹っていたらしい。 我我の行為を決するものは昔の希臘人の云った通り、好悪の外にないのである。我我は人生の泉から、最大の味を汲み取・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・「もし堯舜もいなかったとすれば、孔子はうそをつかれたことになる。聖人のをつかれる筈はない」 僕は勿論黙ってしまった。それから又皿の上の肉へナイフやフォオクを加えようとした。すると小さい蛆が一匹静かに肉の縁に蠢めいていた。蛆は僕の頭の・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・分相当なる用意があるであろう、日常のことだけに仰山に失するような事もなかろう、一家必ず服を整え心を改め、神に感謝の礼を捧げて食事に就くは、如何に趣味深き事であろう、礼儀と興味と相和して乱れないとせば、聖人の教と雖も是には過ぎない、それが一般・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・「聖人になりたい、君子になりたい、慈悲の本尊になりたい、基督や釈迦や孔子のような人になりたい、真実にそうなりたい。しかしもし僕のこの不思議なる願が叶わないで以て、そうなるならば、僕は一向聖人にも神の子にもなりたくありません。「山林の・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・日蓮は自らをもって仏説に予言されている本化の上行菩薩たることを期し、「閻浮提第一の聖人」と自ら宣した。 日蓮のかような自負は、普遍妥当の科学的真理と、普通のモラルとしての謙遜というような視角からのみみれば、独断であり、傲慢であることをま・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・「山に登らせたまひしより、明けても暮れても床しさは心を砕きつれども、貴き道人となしたてまつる嬉しやと思ひしに、内裏の交りをし、紫甲青甲に衣の色をかへ、御布施の物とりたまひ候ほどの、名聞利養の聖人となりそこね給ふ口惜さよ。夢の夜に同じ迷ひ・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・傑作を書いて、ちょっと聖人づらをしたいのだろう。馬鹿野郎。 自分は君に、「作家は仕事をしなければならぬ。」と再三、忠告した筈でありました。それは決して、一篇の傑作を書け、という意味ではなかったのです。それさえ一つ書いたら死んでもいいなん・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・気違いの真似だと言って電柱によじのぼったりする奴は気違いである、聖人賢者の真似をして、したり顔に腕組みなんかしている奴は、やっぱり本当の聖人賢者である、なんて、いやな事が書かれてあったが、浮気の真似をする奴は、やっぱり浮気、奇妙に学者ぶる奴・・・ 太宰治 「鉄面皮」
・・・昔の聖人は四十歳にして惑わずと云ったそうである。これが儒教道徳に養われて来たわれわれの祖先の標準となっていた。現代の人間が四十歳くらいで得た人生観や信条をどこまでも十年一日のごとく固守して安心しているのが宜いか悪いか、それとも死ぬまでも惑い・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
・・・ なお委しくいいますと聖人といえば孔子、仏といえば釈迦、節婦貞女忠臣孝子は、一種の理想の固まりで、世の中にあり得ないほどの、理想を以て進まねばならなかった。親が、子供のいう事を聞かぬ時は、二十四孝を引き出して子供を戒めると、子供は閉口す・・・ 夏目漱石 「教育と文芸」
出典:青空文庫