・・・これはいつでもアグニの神が、空から降りて来る時に、きっと聞える声なのです。 もうこうなってはいくら我慢しても、睡らずにいることは出来ません。現に目の前の香炉の火や、印度人の婆さんの姿でさえ、気味の悪い夢が薄れるように、見る見る消え失せて・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・ それが父には暢気な言いごとと聞こえるのも彼は承知していないではなかった。父ははたして内訌している不平に油をそそぎかけられたように思ったらしい。「寝たければお前寝るがいい」 とすぐ答えたが、それでもすぐ言葉を続けて、「そう、・・・ 有島武郎 「親子」
・・・トンミイ、フレンチ君が、糊の附いた襟が指に障るので顫えながら、嵌まりにくいシャツの扣鈕を嵌めていると、あっちの方から、鈍い心配気な人声と、ちゃらちゃらという食器の触れ合う音とが聞える。「あなた、珈琲が出来ました。もう五時です。」こう云う・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ホテルからは、ナイフやフォオクや皿の音が聞える。投げられた魚は、地の上で短い、特色のある踊をおどる。未開人民の踊のような踊である。そして死ぬる。 小娘は釣っている。大いなる、動かすべからざる真面目の態度を以て釣っている。 直き傍に腰・・・ 著:アルテンベルクペーター 訳:森鴎外 「釣」
・・・しかし夜になれば、別荘の人々には外で番をして吠える声が聞えるのである。 その内秋になった。雨の日が続いた。次第に処々の別荘から人が都会へ帰るようになった。 この別荘の中でも評議が初まった。レリヤが、「クサカはどうしましょうね」といっ・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・一応尤もに聞えるよ。しかしあの理窟に服従すると、人間は皆死ぬ間際まで待たなければ何も書けなくなるよ。歌は――文学は作家の個人性の表現だということを狭く解釈してるんだからね。仮に今夜なら今夜のおれの頭の調子を歌うにしてもだね。なるほどひと晩の・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・ 虫ではない、確かに鳥らしく聞こえるが、やっぱり下の方で、どうやら橋杭にでもいるらしかった。「千鳥かしらん」 いや、磯でもなし、岩はなし、それの留まりそうな澪標もない。あったにしても、こう人近く、羽を驚かさぬ理由はない。 汀・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・ 何か人声が遠くに聞えるよと耳を立てて聞くと、助け舟は無いかア……助け舟は無いかア……と叫ぶのである。それも三回ばかりで声は止んだ。水量が盛んで人間の騒ぎも壓せられてるものか、割合に世間は静かだ。まだ宵の口と思うのに、水の音と牛の鳴く声・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・停車場から鐸の音が、ぴんぱんぴんぱんというように遠く聞える。丁度時計のセコンドのようである。セコンドや時間がどうなろうと、そんな事は、もうこの二人には用がないのである。女学生の立っている右手の方に浅い水溜があって、それに空が白く映っている。・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・ところどころに点いている街燈の光が見えるだけで、あとは風の音が聞こえるばかりでした。 ちょうど、その時分、B医師は、暗い路を考えながら下を向いて歩いてきました。彼は、いま往診した、哀れな子供のことについて、さまざまのことを思っていたので・・・ 小川未明 「三月の空の下」
出典:青空文庫