・・・「よくお聞きよ。今夜は久しぶりにアグニの神へ、御伺いを立てるんだからね、そのつもりでいるんだよ」 女の子はまっ黒な婆さんの顔へ、悲しそうな眼を挙げました。「今夜ですか?」「今夜の十二時。好いかえ? 忘れちゃいけないよ」 ・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・ すぐそばで気息せき切ってしみじみといわれるお婆様の声を私は聞きました。妹は頭からずぶ濡れになったままで泣きじゃくりをしながらお婆様にぴったり抱かれていました。 私たち三人は濡れたままで、衣物やタオルを小脇に抱えてお婆様と一緒に家の・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・その内に段々夜吠える声に聞き馴れて、しまいには夜が明けると犬のことを思い出して「クサカは何処に居るかしらん」などと話し合うようになった。 このクサカという名がこういう風に初めてこの犬に附けられた。稀には昼間も木立の茂った中にクサカの姿が・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・昨夜は隣の室で女の泣くのを聞きながら眠ったっけが、今夜は何を聞いて眠るんだろうと思いながら行くんだ。初めての宿屋じゃ此方の誰だかをちっとも知らない。知った者の一人もいない家の、行燈か何かついた奥まった室に、やわらかな夜具の中に緩くり身体を延・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・ そうじゃないんですか、あら、あれお聞きなさい。あの大勢の人声は、皆、貴下の名誉を慕うて、この四阿へ見に来るのです。御覧なさい、あなたがお仕事が上手になると、望もかなうし、そうやってお身体も輝くのに、何が待遠くって、道ならぬ心を出すんで・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・この朝予は吉田の駅をでて、とちゅう畑のあいだ森のかげに絹織の梭の音を聞きつつ、やがて大噴火当時そのままの石の原にかかった。千年の風雨も化力をくわうることができず、むろん人間の手もいらず、一木一草もおいたたぬ、ゴツゴツたる石の原を半里あまりあ・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・ドチラかというと寡言の方で、眼と唇辺に冷やかな微笑を寄せつつ黙して人の饒舌を聞き、時々低い沈着いた透徹るような声でプツリと止めを刺すような警句を吐いてはニヤリと笑った。 緑雨の随筆、例えば『おぼえ帳』というようなものを見ると、警句の連発・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・そうすると、黙っていて伯父さんの油を使っては悪いということを聞きましたから、「それでは私は私の油のできるまでは本を読まぬ」という決心をした。それでどうしたかというと、川辺の誰も知らないところへ行きまして、菜種を蒔いた。一ヵ年かかって菜種を五・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・さよ子は、電車の往来しているにぎやかな町にきましたときに、そのあたりの騒がしさのために、よい音色を聞きもらしてしまいました。これではいけないと思って、ふたたび静かなところに出て耳を澄ましますと、またはっきりと、よい音が聞こえてきましたから、・・・ 小川未明 「青い時計台」
・・・ 私も――縁起でもないけど――何しろお前さんの便りはなし、それにあちこち聞き合わして見ると、てんで船の行方からして分らないというんだもの。ああ気の毒に! 金さんはそれじゃ船ぐるみ吹き流されるか、それとも沖中で沈んでしまって、今ごろは魚の餌食・・・ 小栗風葉 「深川女房」
出典:青空文庫