・・・ 就中、公孫樹は黄なり、紅樹、青林、見渡す森は、みな錦葉を含み、散残った柳の緑を、うすく紗に綾取った中に、層々たる城の天守が、遠山の雪の巓を抽いて聳える。そこから斜に濃い藍の一線を曳いて、青い空と一刷に同じ色を連ねたのは、いう迄もなく田・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・近づくにつれて、晴川歴々たり漢陽の樹、芳草萋々たり鸚鵡の洲、対岸には黄鶴楼の聳えるあり、長江をへだてて晴川閣と何事か昔を語り合い、帆影点々といそがしげに江上を往来し、更にすすめば大別山の高峰眼下にあり、麓には水漫々の月湖ひろがり、更に北方に・・・ 太宰治 「竹青」
・・・ 窓際の籐椅子に腰かけて、正面に聳える六百山と霞沢山とが曇天の夕空の光に照らされて映し出した色彩の盛観に見惚れていた。山頂近く、紺青と紫とに染められた岩の割目を綴るわずかの紅葉はもう真紅に色づいているが、少し下がった水準ではまだようやく・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・夕暗に聳える恵那山は真っ白に雪を被っていた。汗ばんだ体は、急に凍えるように冷たさを感じ始めた。彼の通る足下では木曾川の水が白く泡を噛んで、吠えていた。「チェッ! やり切れねえなあ、嬶は又腹を膨らかしやがったし、……」彼はウヨウヨしている・・・ 葉山嘉樹 「セメント樽の中の手紙」
・・・ かくて、地上には無限に肥った一人の成人と、蒼空まで聳える轢殺車一台とが残るのか。 そうだろうか! そうだとするとお前は困る。もう啖うべき赤ん坊がなくなったじゃないか。 だが、その前に、お前は年をとる。太り過ぎた轢殺車がお前・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・ 右からは二千五百万人の失業者を含む勤労階級の攻勢に押され、左に彼等の敵として聳えるソヴェト同盟に圧され各国のブルジョア支配者たちは、死物狂いになって来た。 中国をケシかけ、ポーランドを操るだけでは我慢出来なくなった列国は、一九三〇・・・ 宮本百合子 「五ヵ年計画とソヴェトの芸術」
・・・太陽の明るみが何時か消えて、西岸に聳えるプロスペクト山の頂に見馴れた一つ星が青白く輝き出すと、東の山の端はそろそろと卵色に溶け始めます。けれども、支えて放たれない光りを背に据えた一連の山々は、背後の光輝が愈々増すにつれて、刻一刻とその陰影を・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・架橋工事の板囲から空へ突出た起重機の鉄の腕が遠く聳えるウェストミンスタア寺院の塔の前で曲っている。河岸でも葉は黄色かった。トラックのタイアに黄葉が散ってくっついて走った。 PELL《ペル》――MELL《メル》は古風な英国の球ころがし・・・ 宮本百合子 「ロンドン一九二九年」
出典:青空文庫