・・・ 戸沢がこう云いかけると、谷村博士は職業的に、透かさず愛想の好い返事をした。「そうでしょう。多分はあなたの御覧になった後で発したかと思うんです。第一まだ病状が、それほど昂進してもいないようですから、――しかしともかくも現在は、腹膜炎・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ 彼の言葉は咄嗟の間にいつか僕の忘れていた彼の職業を思い出させた。僕はいつも彼のことをただ芸術的な気質を持った僕等の一人に考えていた。しかし彼は衣食する上にはある英字新聞の記者を勤めているのだった。僕はどう云う芸術家も脱却出来ない「店」・・・ 芥川竜之介 「彼 第二」
・・・足くびの時なぞは、一応は職業行儀に心得て、太脛から曲げて引上げるのに、すんなりと衣服の褄を巻いて包むが、療治をするうちには双方の気のたるみから、踵を摺下って褄が波のようにはらりと落ちると、包ましい膝のあたりから、白い踵が、空にふらふらとなり・・・ 泉鏡花 「怨霊借用」
・・・になれるなら、吉弥を女優にしたらどうだということを勧め、役者なるものは――とても、言ったからとて、分るまいとは思ったが、――世間の考えているような、またこれまでの役者みずからが考えているような、下品な職業ではないことを簡単に説明してやった。・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・僕は裁判をしてこっちが羞恥を感じて赤面したが、女はシャアシャアしたもんで、平気でベラベラ白状した。職業的堕落婦人よりは一層厚顔だ。口の先では済まない事をした、申訳がありませんといったが、腹の底では何を思ってるか知れたもんじゃない。良心がまる・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・又文人に限らず、如何なる職業にしろ、単に米塩の為め働くというのは生活上非合理であって、米塩は其職業に労力した結果として自ずから齎らさるゝものでなければならぬ。然るに文学上の労力がイツマデも過去に於ける同様の事情でイクラ骨を折っても米塩を齎ら・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・たとえば、その一例として挙げれば、子供が友達と遊んでいたとする、その子供の様子が汚いからといって、また、その子供の親の職業が低いからといって、「あの子供と遊んではいけません」というが如きは、それであります。公正にして、純情な子供の心に、階級・・・ 小川未明 「お母さんは僕達の太陽」
・・・彼女たち――すなわち、此の界隈で働く女たち、丸髷の仲居、パアマネント・ウエーヴをした職業婦人、もっさりした洋髪の娼妓、こっぽりをはいた半玉、そして銀杏返しや島田の芸者たち……高下駄をはいてコートを着て、何ごとかぶつぶつ願を掛けている――雨の・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・ 貴様は! 厭に邸内をジロ/\覗き歩いて居るが、一体貴様は何者か? 職業は? 住所は?」 で彼は何気ない風を装うつもりで、扇をパチ/\云わせ、息の詰まる思いしながら、細い通りの真中を大手を振ってやって来る見あげるような大男の側を、急ぎ脚・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・第二に、案外片意地で高慢なところがあって、些細な事に腹を立てすぐ衝突して職業から離れてしまう。第三に、妙に遠慮深いところがあること。 なるほどそう聞かされると翁の知人どものいわゆる『理由』は多少の『理由』を成している。 けれど大なる・・・ 国木田独歩 「二老人」
出典:青空文庫