・・・しかし味かたは勇敢にじりじり敵陣へ肉薄した。もっとも敵の地雷火は凄まじい火柱をあげるが早いか、味かたの少将を粉微塵にした。が、敵軍も大佐を失い、その次にはまた保吉の恐れる唯一の工兵を失ってしまった。これを見た味かたは今までよりも一層猛烈に攻・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・ドイルだって、あの名探偵の名前を、シャロック・ホオムズではなく、もっと真実感を肉薄させるために、「私」という名前にして発表したなら、あんな、なごやかな晩年を享受できたかどうか、疑わしい。 私小説を書く場合でさえ、作者は、たいてい自身を「・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・この技術によって観客の目は対象物の直前に肉薄する。従って顔の小じわの一つ一つ、その筋肉の微細な運動までが異常に郭大される。指先の神経的な微動でもそれが恐ろしくこくめいに強調されて見える。それだから大写しの顔や手は、決して「芝居」をしてはいけ・・・ 寺田寅彦 「生ける人形」
・・・オリンピック競技では馬やかもしかや魚の妙技に肉薄しようという世界じゅうの人間の努力の成果が展開されているのであろう。 機械的文明の発達は人間のこうした欲望の炎にガソリン油を注いだ。そのガソリンは、モーターに超高速度を与えて、自動車を走ら・・・ 寺田寅彦 「からすうりの花と蛾」
・・・オリンピック競技では馬や羚羊や魚の妙技に肉薄しようという世界中の人間の努力の成果が展開されているのであろう。 機械的文明の発達は人間のこうした慾望の焔にガソリン油を注いだ。そのガソリンは、モーターに超高速度を与えて、自動車を走らせ、飛行・・・ 寺田寅彦 「烏瓜の花と蛾」
・・・単になるべく沢山の鳥を殺して猟嚢を膨らませるという目的ならとにかく、獲物と相対してそれに肉薄する緊張が加速度的に増大しつつ最後に頂点に到達するまでの「三昧」の時間に相当の長さのあることだけから見てもこれは決してそれほどつまらないものではない・・・ 寺田寅彦 「鴫突き」
・・・それが猛獣を呼出したと思われる。それからやはり前夜の食卓で何かのついでから、ずっと前に動物園の猛獣が逃出した事のあった話をした。それが猛獣肉薄の場面を呼出したかもしれない。「御菓子を持って来い」がどうも分らないが、しかしその前々夜であったか・・・ 寺田寅彦 「夢判断」
・・・全篇の中でも、亮子のいわゆる心をどうかしそうにまで肉薄した描写である。 作者は恐らく周囲に充ちているであろう小説家的日暮しの人工性、稀薄性に呼吸困難を感じ、いかりを蔵して、この一篇に組みうったのであったろう。その作者の気分は、はっきりと・・・ 宮本百合子 「十月の文芸時評」
・・・にしろ作者たちの凜然たる階級的肉薄は感じられないのである。 嘉村礒多氏は、近頃文章だけについて云ってさえ粗末極まるものが多い稀薄なブルジョア作品の中にあって一種独特なねつさ、粘着力を示して「父の家」を書いている。没落する地方の中地主・・・ 宮本百合子 「同志小林の業績の評価によせて」
・・・更にこれをさかのぼれば、生活に肉薄した作家の常に正気を失わぬ眼力、人間の幸福に向っての骨惜しみをしない努力とそのための価値の探求・発見の態度にかかっている。あるままを素直に感受する敏感さと、驚きもよろこびも疑問をも活々と感じ得る慧智と、人間・・・ 宮本百合子 「文学の流れ」
出典:青空文庫