・・・胸から下の肢体は感触を失ったかと思うほどこわばって、その存在を思う事にすら、消え入るばかりの羞恥を覚えた。毛の根は汗ばんだ。その美しい暗緑の瞳は、涙よりももっと輝く分泌物の中に浮き漂った。軽く開いた唇は熱い息気のためにかさかさに乾いた。油汗・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ あとは無我夢中で、一種特別な体臭、濡れたような触感、しびれるような体温、身もだえて転々する奔放な肢体、気の遠くなるような律動。――女というものはいやいや男のされるがままになっているものだと思い込んでいた私は、愚か者であった。日頃慎まし・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ また夕方、溪ぎわへ出ていた人があたりの暗くなったのに驚いてその門へ引返して来ようとするとき、ふと眼の前に――その牢門のなかに――楽しく電燈がともり、濛々と立ち罩めた湯気のなかに、賑やかに男や女の肢体が浮動しているのを見る。そんなとき人・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・その怪物の透明な肢体の各部がいろいろ複雑微妙な運動をしている。しかしわれわれ愚かな人間にはそれらの運動が何を意味するか、何を目的としているか全くわからない。わからないから見ていて恐ろしくなりすごくなる。哀れな人間の科学はただ茫然として口をあ・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・しかしそれよりも、もっと直接に自覚的な筋肉感覚に訴える週期的時間間隔はと言えば、歩行の歩調や、あるいは鎚でものをたたく週期などのように人間肢体の自己振動週期と連関したものである。舞踊のステップの週期も同様であって、これはまた音楽の律動週期と・・・ 寺田寅彦 「空想日録」
・・・清らかな、のびのびした円い腕。肢体を包んで静かに垂直に垂れた衣。そうして柔らかな、無限の慈悲を湛えているようなその顔。――そこにはいのちの美しさが、波の立たない底知れぬ深淵のように、静かに凝止している。それは表に現われた優しさの底に隠れる無・・・ 和辻哲郎 「偶像崇拝の心理」
・・・その豊満な肢体や、西方人を連想させる面相や、それらを取り扱う場合の感覚的な興味などは、推古仏にはほとんどないものと言ってよい。推古仏の特徴は肢体がほっそりした印象を与えること、顔も細面であること、それらを取り扱う場合に意味ある形を作り出すこ・・・ 和辻哲郎 「麦積山塑像の示唆するもの」
・・・すなわち人形の肢体を形成しているのは実はこの四本の紐なのであって、手や足はこの紐の端に過ぎない。従って足を見せる必要のない女の人形にあっては肢体の下半には何もない。あるのは衣裳だけである。 人形の肢体が紐であるということは、実は人形の肢・・・ 和辻哲郎 「文楽座の人形芝居」
・・・ ところでこの能面が舞台に現われて動く肢体を得たとなると、そこに驚くべきことが起こってくる。というのは、表情を抜き去ってあるはずの能面が実に豊富きわまりのない表情を示し始めるのである。面をつけた役者が手足の動作によって何事かを表現すれば・・・ 和辻哲郎 「面とペルソナ」
出典:青空文庫