・・・帰って来ると浅川の叔母が、肩越しに彼の顔を見上げて、「どうだえ? お母さんは。」と声をかけた。「目がさめています。」「目はさめているけれどさ。」 叔母はお絹と長火鉢越しに、顔を見合せたらしかった。姉は上眼を使いながら、笄で髷・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・僕らは皆頸をのばし、幅の広いマッグの肩越しに一枚の紙をのぞきこみました。「いざ、立ちてゆかん。娑婆界を隔つる谷へ。 岩むらはこごしく、やま水は清く、 薬草の花はにおえる谷へ。」 マッグは僕らをふり返りながら、微苦笑と・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・ O君は肩越しに僕等を見上げ、半ばは妻に話しかけたりした。成程一本のマッチの火は海松ふさや心太艸の散らかった中にさまざまの貝殻を照らし出していた。O君はその火が消えてしまうと、又新たにマッチを摺り、そろそろ浪打ち際を歩いて行った。「・・・ 芥川竜之介 「蜃気楼」
・・・が、田中君は肩越しに、「ああ。」と軽く答えたぎり、依然として須田町の方へ歩いて行く。そこでお君さんもほかに仕方がないから、すぐに田中君へ追いつくと、葉を振った柳の並樹の下を一しょにいそいそと歩き出した。するとまた田中君は、あの何とも・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・だから自分は喝采しながら、聳かした肩越しに、昂然として校舎の入口を眺めやった。するとそこには依然として、我毛利先生が、まるで日の光を貪っている冬蠅か何かのように、じっと石段の上に佇みながら、一年生の無邪気な遊戯を、余念もなく独り見守っている・・・ 芥川竜之介 「毛利先生」
・・・主計官は肩越しにこちらを向いた。その唇には明らかに「直です」と云う言葉が出かかっていた。しかし彼はそれよりも先に、ちゃんと仕上げをした言葉を継いだ。「主計官。わんと云いましょうか? え、主計官。」 保吉の信ずるところによれば、そう云・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・ 彼女は肩越しにわたしを眺め、ちらりと冷笑に近い表情を示した。「誰でも胞衣をかぶって生まれて来るんですね?」「つまらないことを言っている。」「だって胞衣をかぶって生まれて来ると思うと、……」「?……」「犬の子のような・・・ 芥川竜之介 「夢」
・・・それも顔と云うよりは、むしろその一部分で、殊に眼から鼻のあたりが、まるで新蔵の肩越しにそっとコップの中を覗いたかのごとく、電燈の光を遮って、ありありと影を落しました。こう云うと長い間の事のようですが、前にも云った通りほんの一瞬間で、何とも判・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・変にこう身体がぞくぞくしてくるんで、『お出でなすったな』と思っていると、背後から左りの肩越しに、白い霧のようなものがすうっと冷たく顔を掠めて通り過ぎるのだ。俺は膝頭をがたがた慄わしながら、『やっぱし苦しいと見えて、また出やがったよ』と、泣笑・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・ びっくりして振り向くと六十ばかりの老爺が腰を屈めて僕の肩越しにのぞき込んでいるんだ。僕はあまりのことに、何だびっくりしたじゃアないかと怒鳴ってやッた。渠一向平気で、背負っていた枯れ木の大束をそこへ卸して、旦那は絵の先生かときくから先生・・・ 国木田独歩 「郊外」
出典:青空文庫