・・・僕は滑らかな河童の背中にやっと指先がさわったと思うと、たちまち深い闇の中へまっさかさまに転げ落ちました。が、我々人間の心はこういう危機一髪の際にも途方もないことを考えるものです。僕は「あっ」と思う拍子にあの上高地の温泉宿のそばに「河童橋」と・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・妻は、模様も分らなくなった風呂敷を三角に折って露西亜人のように頬かむりをして、赤坊を背中に背負いこんで、せっせと小枝や根っこを拾った。仁右衛門は一本の鍬で四町にあまる畑の一隅から掘り起しはじめた。外の小作人は野良仕事に片をつけて、今は雪囲を・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・もしこの椅子のようなものの四方に、肘を懸ける所にも、背中で倚り掛かる所にも、脚の所にも白い革紐が垂れていなくって、金属で拵えた首を持たせる物がなくって、乳色の下鋪の上に固定してある硝子製の脚の尖がなかったなら、これも常の椅子のように見えて、・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・次第に馴れて来て、その手が犬の背中を一ぱいに摩って、また指尖で掻くように弄った。 レリヤは別荘の方に向いて、「お母あさんも皆も来て御覧。私今クサカを摩って居るのだから」といった。 子供たち大勢がわやわやいって走り寄った。クサカの方で・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・小児が奥で泣いている時でも、雨が降っている時でも、ずッと背中まで外へ出して。 私はまた、曲り角で、きっと、密と立停まって、しばらく経って、カタリと枢のおりるのを聞いたんです。 その、帰り途に、濠端を通るんです。枢は下りて、貴女の寝た・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・ 勿論僕とは大の仲好しで、座敷を掃くと云っては僕の所をのぞく、障子をはたくと云っては僕の座敷へ這入ってくる、私も本が読みたいの手習がしたいのと云う、たまにはハタキの柄で僕の背中を突いたり、僕の耳を摘まんだりして逃げてゆく。僕も民子の姿を・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・軍曹はその卒の背中をたたいて、『しっかりせい! こんな傷ならしばっとけばええ。』――」「随分滑稽な奴じゃないか?」「それが、さ、岩田君、跡になれば滑稽やが、その場にのぞんでは、極真面目なもんや。戦争の火は人間の心を焼き清めて、一生懸・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・爰で産落されては大変と、強に行李へ入れて押え付けつつ静かに背中から腰を撫ってやると、快い気持そうに漸と落付いて、暫らくしてから一匹産落し、とうとう払暁まで掛って九匹を取上げたと、猫のお産の話を事細やかに説明して、「お産の取上爺となったのは弁・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・といって、そのかめの背中に乗って、空色の着物を着た子供は、波の間に見えなくなってしまいました。そしてまた波が、ど、ど、ど――ときて、砂の上に落ちていたさんごや、真珠や、紫水晶を洗い流していってしまったのであります。・・・ 小川未明 「海の少年」
・・・そら、駱駝の背中みたいなあの向う、あそこへ行きねえ。」と険突を食わされた。 駱駝の背中と言ったのは壁ぎわの寝床で、夫婦者と見えて、一枚の布団の中から薄禿の頭と櫛巻の頭とが出ている。私はその横へ行って、そこでもまたぼんやり立っていると、櫛・・・ 小栗風葉 「世間師」
出典:青空文庫