・・・その中で何等の危害をも感ぜぬらしく見えるのは、一番恐ろしい運命の淵に臨んでいる産婦と胎児だけだった。二つの生命は昏々として死の方へ眠って行った。 丁度三時と思わしい時に――産気がついてから十二時間目に――夕を催す光の中で、最後と思わしい・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・しかし胎児には異状はなかったらしかった。そのあとで信子は夫に事のありようを話した。行一はまだ妻の知らなかったような怒り方をした。「どんなに叱られてもいいわ」と言って信子は泣いた。 しかし安心は続かなかった。信子はしばらくして寝ついた・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・腹では胎児がむく/\と内部から皮を突っぱっていた。四 百姓は、生命よりも土地が大事だというくらい土地を重んじた。 死人も、土地を買わなければ、その屍を休める場所がない。――そういう思想を持っていた。だから、棺桶の中へは、・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・実際始めのほうの宴会の場には骸骨の踊りがあるのである。胎児の蝋細工模型でも、手術中に脈搏が絶えたりするのでも、少なくも感じの上では「死の舞踊」と同じ感じのもののように思われる。終局の場面でも、人生の航路に波が高くて、舳部に砕ける潮の飛沫の中・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・それはとにかく私はそれがために胎児や母体に何か悪い影響がありはしないかという気がしたが、しかし別にどうするでもなくそのままにうっちゃっておいた。 どんな子猫が生まれるだろうかという事が私の子供らの間にしばしば問題になっていた。いろいろな・・・ 寺田寅彦 「子猫」
・・・ 気候の変化が人間の生理にも若干の影響があるかもしれないとすると、それが胎児の特異性に多少の効果を印銘することが全然ないとも限らないし、そうなると生まれ年の干支とその人の特性とが、少なくもある期間については多少の相関を示す場合がないとも・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・ちょうど人間が胎児であったとき、その成長の過程で、ごく初期の胎生細胞はだんだん消滅して、すべて新しい細胞となって健康な赤ん坊として生れてくる。けれどももし何かの自然の間違いで、胎生細胞がいくつか新しくなりきらないで、人間のからだの中にのこっ・・・ 宮本百合子 「明日をつくる力」
・・・ところがもう六度の手術で子宮の組織がすっかり破壊されてしまって居たので、胎児の発育を持ちこたえられず子宮破裂で その女は死んでしまった。 人工流産を小さい番号札と最大限二十五―三十留までの金と三日の臥床とにだけ圧搾して考えるСССР的無・・・ 宮本百合子 「一九二九年一月――二月」
・・・「ちょっと聴いて見給え。胎児の心音が好く聞える。手の脈と一致している母体の心音よりは度数が早いからね。」 佐藤は黙って聴診してしまって、忸怩たるものがあった。「よく話して聞せて遣ってくれ給え。まあ、套管針なんぞを立てられなくて為・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
出典:青空文庫