・・・御先祖の霊前に近く、覚悟はよいか、嬉しゅうござんす、お妻の胸元を刺貫き――洋刀か――はてな、そこまでは聞いておかない――返す刀で、峨々たる巌石を背に、十文字の立ち腹を掻切って、大蘇芳年の筆の冴を見よ、描く処の錦絵のごとく、黒髪山の山裾に血を・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・と見えたのではないかと多少解決がついたので、格別にそれを気にも留めず、翌晩は寝る時に、本は一切片附けて枕許には何も置かずに床に入った、ところが、やがて昨晩と、殆んど同じくらいな刻限になると、今度は突然胸元が重苦しく圧されるようになったので、・・・ 小山内薫 「女の膝」
・・・ 胸元から大きな丸いものがこみ上げて来る様な臭いの眠り薬、恐しげに光る沢山の刃物、手術のすみきらない内に、自然と眠りが覚めかかってうめいた太い男の声、それから又あの手を真赤にして玩具をいじる様に、人間の内実をいじって居た髭むじゃな医者の・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ 女将は、白い木綿の襟を見せた縞の胸元を反らすようにし、自分の掌を表かえし裏かえし見た。「まあ、一寸見せてさ」「へえ、何どっしゃろ……偉い可愛らしい手どっせ」 肉の薄い血色のわるい掌であった。然し、彼女がたった三本だけ名を知・・・ 宮本百合子 「高台寺」
・・・白っぽい浴衣の胸元、前と、血がほとばしってついているのであった。「――どうだね」 よって来る看守に向い、その人はやっと舌を動かして、「医者よんで下さい」と要求した。「化膿しちゃうわ。……歯ぐきと頬っぺたの肉がすっかり剥れ・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・多い髪がいくらか重そうにゆったりと結われているところも、胸元がゆったりとしているところも、動作の線がのびやかなのも、みんな生徒たちをよろこばせた。 それが、千葉安良先生であった。学校の空気には、抑えても溢れる若さに共感をもつような要素に・・・ 宮本百合子 「時代と人々」
・・・ 暫くじっと止って居たがやがて急に私の胸元へとびついて来た。 驚いてふりもぎる、拍子に体が宙がえりを打って図らず見えた腹に何か白いものがついて居る。私は始めて螢だったことに気がついたのである。 私は今までにないなつかしみを以て、・・・ 宮本百合子 「樹蔭雑記」
・・・いた間暮した女がその夜も来ていたが、そういう昔馴染でさえ、あああの時はどうだった、この時はこうであったというような話はしないで、大きい青桐の葉に深夜の電燈が煌々と輝やいている二階の手摺のそばで、団扇を胸元で低くつかいながら、思い出したように・・・ 宮本百合子 「母」
・・・ズラリと揺籃を並べ、小さい胸元に金の番号札をつけて眠ったり、欠伸をしたり、元気のいい赤坊唱歌をやったりしてる。 赤坊たちの胸に光ってる金の番号札が、母親の寝台番号だ。三時間おきに、保姆がめいめいの寝台に赤坊をつれてゆき、お乳をのませると・・・ 宮本百合子 「モスクワ日記から」
出典:青空文庫