・・・故に倫理学の書をまだ一ページもひるがえさぬ先きに、倫理的な問いが研究者の胸裡にわだかまっていなければならぬ。そして実はその倫理的な問いたるや、すでに青年の胸を悩まし、圧しつけ、迷わしめているところの、活ける人生の実践的疑団でなくてはならない・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・それでは彼の胸裡の疑団とはどんなものであったか。 第一には何故正しく、名分あるものが落魄して、不義にして、名正しからざるものが栄えて権をとるかということであった。 日蓮の立ち上った動機を考えるものが忘れてならないのは承久の変であ・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・材に限られていても、その中に躍動している生きた体験から流露するあるものは、直接に読者の胸にしみ込む、そしてたとえそれが間違っている場合でさえも、書いた人の真を求める魂だけは力強く読者に訴え、読者自身の胸裏にある同じようなものに火をつける。そ・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・小説戯曲によっては現実に遠い神秘的あるいは夢幻的なものもあるが、しかしこれが文学的作品として成立するためにはやはり読者の胸裏におのずから存在する一種の方則を無視しないものでなければならない。これを無視したものがあればそれはつまり瘋癲病院の文・・・ 寺田寅彦 「科学者と芸術家」
・・・カイゼルの胸裡にはその時既に空中襲英の問題が明らかに画かれていたと称せられている。これに反して英国で高層観測事業が一私人ダインスの手から政府に移ったのはずっと後の事であった。また近頃エールシャイアのある地に航空隊の練習場を設けかかった。あら・・・ 寺田寅彦 「戦争と気象学」
・・・夢の推移は顕在的には不可能であるが、心理分析によってこれを潜在意識の言葉に翻訳するとそれが必然的な推移であって、しかもその推移がその夢の作者の胸裏の秘密のある一面の「流行の姿」を物語ることになるのである。ここにも「虚実の出入」があるといわれ・・・ 寺田寅彦 「俳諧の本質的概論」
・・・ 一たび家を失ってより、さすらい行く先々の風景は、胸裏に深く思出の種を蒔かずにはいなかった。その地を去る時、いつもわたくしは「きぬぎぬの別れ」に似た悲しみを覚えた。もう一度必ず来て見たいと期待しながら、去って他の地へ行くのである。しかし・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・しかもその併立せるものが一見反対の趣味で相容れぬと云う事実も認め得るかも知れぬ――批評家は反対の趣味も同時に胸裏に蓄える必要がある。 物理学者が物質を材料とするごとく、動物学者が動物を材料とするごとく、批評家もまた過去の文学を材料として・・・ 夏目漱石 「作物の批評」
・・・○それからだんだん慣れて来たら、ようやく役者の主意の存するところもほぼ分って来たので、幾分か彼我の胸裏に呼応する或ものを認める事ができたが、いかんせん、彼らのやっている事は、とうてい今日の開明に伴った筋を演じていないのだからはなはだ気の・・・ 夏目漱石 「明治座の所感を虚子君に問れて」
・・・いかにせば生き延びらるるだろうかとは時々刻々彼らの胸裏に起る疑問であった。ひとたびこの室に入るものは必ず死ぬ。生きて天日を再び見たものは千人に一人しかない。彼らは遅かれ早かれ死なねばならぬ。されど古今に亘る大真理は彼らに誨えて生きよと云う、・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
出典:青空文庫