・・・空しく探し求めていると、だんだんに私は胸騒ぎを覚えた。Sも私を待ち焦れているだろうと思うと、胸騒ぎは一層激しくなった。いつか私はびしょ濡れになりながら、広場のあちこちを駆けずり廻り、苦しいまでに焦燥を感じた。Sはどこにいるのだろう。私は人一・・・ 織田作之助 「面会」
・・・寺の裏の山の椎の樹へ来る烏の啼き声にも私は朝夕不安な胸騒ぎを感じた。夏以来やもめ暮しの老いた父の消息も気がかりだった。まったく絶望的な惨めな気持だった。「ここは昔お寺のできなかった前は地獄谷といって、罪人の頸を刎ねる場所だったのだそうで・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・なんの感激も無しに立って、「卓に向い、その時たまたま記憶に甦って来た曾遊のスコットランドの風景を偲ぶ詩を二三行書くともなく書きとどめ、新刊の書物の数頁を読むともなく読み終ると、『いやに胸騒ぎがするな』と呟きながら、小机の抽斗から拳銃を取り出・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・恍惚と不安の交錯した異様な胸騒ぎで、かえって仕事に手が附かず、いたたまらなくなった。 東京八景。私は、その短篇を、いつかゆっくり、骨折って書いてみたいと思っていた。十年間の私の東京生活を、その時々の風景に託して書いてみたいと思っていた。・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・いま考えてみると、たしかに胸騒ぎがしていた。虫の知らせ、というやつであろう。けれども、まさか、これが、どろぼう入来の前兆であるとは気がつかなかった。私はこれを、自身のありあまる教養の故であろうと、お恥かしい、そう思っていたのである。思い出す・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・まず門を入ったら胸騒ぎがしたとか、格子を開ける時にベルが鳴ってますます驚いたとか、頼むと案内を乞うておきながら取次に出て来た下女が不在だと言ってくれればよかったと沓脱の前で感じたとか、それが御宅ですという一言で急に帰りたい心持に変化したとか・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
出典:青空文庫