・・・母の手は冷たい脂汗に、気味悪くじっとり沾っていた。 母は彼の顔を見ると、頷くような眼を見せたが、すぐにその眼を戸沢へやって、「先生。もういけないんでしょう。手がしびれて来たようですから。」と云った。「いや、そんな事はありません。・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ その沈黙はたちまち絞め木のように、色を失った陳の額へ、冷たい脂汗を絞り出した。彼はわなわな震える手に、戸のノッブを探り当てた。が、戸に錠の下りている事は、すぐにそのノッブが教えてくれた。 すると今度は櫛かピンかが、突然ばたりと落ち・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・その中に、ふりまわしている軍刀のつかが、だんだん脂汗でぬめって来る。そうしてそれにつれて、妙に口の中が渇いて来る。そこへほとんど、眼球がとび出しそうに眼を見開いた、血相の変っている日本騎兵の顔が、大きな口を開きながら、突然彼の馬の前に跳り出・・・ 芥川竜之介 「首が落ちた話」
・・・私は脂汗を流していた。「行きましょう。どこか途中に、ウイスキイでも、ゆずってくれる店が無いかな?」「お酒なら、わたくし、用意してありますわ。」「どれくらい?」「現実家ねえ。」 アパートの、前田さんの部屋には、三十歳をとう・・・ 太宰治 「父」
・・・ ついでながら、切り立ての鋏穴の縁辺は截然として角立っているが、揉んで拡がった穴の周囲は毛端立ってぼやけあるいは捲くれて、多少の手垢や脂汗に汚れている。それでも多くの場合に原形の跡形だけは止めている。それでもしこのように揉んだ痕跡があっ・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
出典:青空文庫