・・・「しかしその間も出来る事なら、生みの親に会わせてやりたいと云うのが、豪傑じみていても情に脆い日錚和尚の腹だったのでしょう。和尚は説教の座へ登る事があると、――今でも行って御覧になれば、信行寺の前の柱には「説教、毎月十六日」と云う、古い札・・・ 芥川竜之介 「捨児」
・・・坂田の将棋を見てくれという戦前の豪語も棋界をあっと驚かせた問題の九四歩突きも、脆い負け方をしてみれば、結局は子供だましになってしまった。坂田の棋士としての運命もこの時尽きてしまったかと思われた。私は坂田の胸中を想って暗然とした。同時に私はひ・・・ 織田作之助 「勝負師」
・・・ 冬至に近づいてゆく十一月の脆い陽ざしは、しかし、彼が床を出て一時間とは経たない窓の外で、どの日もどの日も消えかかってゆくのであった。翳ってしまった低地には、彼の棲んでいる家の投影さえ没してしまっている。それを見ると堯の心には墨汁のよう・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・へとも落しかねるを小春が見るからまたかと泣いてかかるにもうふッつりと浮気はせぬと砂糖八分の申し開き厭気というも実は未練窓の戸開けて今鳴るは一時かと仰ぎ視ればお月さまいつでも空とぼけてまんまるなり 脆いと申せば女ほど脆いはござらぬ女を説く・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・下には磁器の堅いものがゴタゴタ並んでいたので、元来脆いこの壷の口の処が少しばかり欠けてしまった。私は驚いて「どうもとんだ粗相をしました」と云うと、主人は、「いや、どう致しまして、一体この置き所も悪いものですから」と云った。そして、「このつれ・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・血の色には汚れがあり、焔の色には苦熱があり、ルビーの色は硬くて脆い。血の汚れを去り、焔の熱を奪い、ルビーを霊泉の水に溶かしでもしたら彼の円山の緋鶏頭の色に似た色になるであろうか。 定山渓も登別もどこも見ず、アイヌにも熊にも逢わないで帰っ・・・ 寺田寅彦 「札幌まで」
・・・早く殺さないと肉が落ちると云うので要太郎が鳥の脇腹をつまむと首がぐたりとなった。脆いもので。これが手始めでそれからは取るは取るは、少しの間に五羽、外に小胸黒を一羽取った。近頃このくらい面白かった事はない。「今晩鴫の御化けが来るぜ。」「来たら・・・ 寺田寅彦 「鴫つき」
・・・一応文学趣味を今日も満足させている芥川龍之介の散文が、教養的であっても、極めて脆い体質をそなえていることなどと著しい対照をも示すわけだろう。 藤村の歿後、何かの新聞に島崎鶏二氏の書いた文章を見かけた。そして生涯精励であるいかなる作家も、・・・ 宮本百合子 「あられ笹」
・・・父は情に脆い質であった。彼にとって、母は只一人生き遺っていた親、幼年時代からの生活の記念であった。兄や弟、妹たちは皆若死をした。母がなくなれば、妻子を除いて、父は独りぼっちだ。父も若くない。寂しく思うだろう。私は自分が子としての立場にある故・・・ 宮本百合子 「祖母のために」
・・・ほら、壊れた、脆い、木造りの梁に火の粉がとびつく。ぱっと拡がる。ミーダ 俺の呪いで植えつけられた慾の皮も火の熱気には叶わないか。算を乱して駆け出したぞ。ヴィンダー 活溌な火気奴! 活動をつづけろ。何より俺の頼もしい配下だ。飛べ、飛べ・・・ 宮本百合子 「対話」
出典:青空文庫