・・・生涯の出来事や光景が、稲妻のように一時に脳裏に閃いたと思うとそれは消えて、身を囲る闇は深さも奥行も知れぬ。どうかして此処を逃れ出たい。今一度小春の日光を見ればそれでよい。霜解け道を踏んで白雲を見ればそれでよい。恐ろしい闇、恐ろしい命と身を悶・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・との疑問が暗々裡に学生の脳裡に起りて何人もこれが解決を与えざるが故に、力と云い、質量と云い、仕事と云うがごとき言葉は、あたかも別世界の言葉のごとく聞え、しかもこれらの考えが先験的必然のものなるにかかわらず自分はこれを理解し得ずとの悲観を懐・・・ 寺田寅彦 「自然現象の予報」
・・・ 今鋏のさきから飛び出す昆虫の群れをながめていた瞬間に、突然ある一つの考えが脳裏にひらめいた。それは別段に珍しい考えでもなかったが、その時にはそれが唯一の真理であるように思われた。――もう昆虫の生命などは方則の前の「物質」に過ぎなくなっ・・・ 寺田寅彦 「芝刈り」
・・・それがそうだと聞かされると同時に三年前の赤ん坊の顔と東京の原町の生活が実に電光のように脳裏にひらめいたのであった。 この絵に対する今の自分の心持ちがやはりいくらかこれに似ている。はじめ見た瞬間にはアイデンチファイすることのできなかった昔・・・ 寺田寅彦 「庭の追憶」
・・・連句の場合にはもちろん事がらが比較にならぬほどあまりに複雑であって、到底音の場合などとの直接の比較は許されないが、ただ甲句を読み通した後に脳裏に残る余響や残像のようなものと、次に来る乙句の内容たる表象や情緒との重なりぐあいによって、そこに甲・・・ 寺田寅彦 「連句雑俎」
・・・余が博士を辞する時に、これら前人の先例は、毫も余が脳裏に閃めかなかったからである。――余が決断を促がす動機の一部分をも形づくらなかったからである。尤も先生がこれら知名の人の名を挙げたのは、辞任の必ずしも非礼でないという実証を余に紹介されたま・・・ 夏目漱石 「博士問題とマードック先生と余」
・・・いつでも見える状態であるからして、そのいずれの一瞬間を截ち切ってもその断面は長い全部を代表する事ができる、語を換えて云えば、十年二十年の状態を一瞬の間につづめたもの、煮つめたもの、煎じつめたものを脳裏に呼び起すことができると。そこでこの煮つ・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・眼は戸の真中を見ているが瞳孔に写って脳裏に印する影は戸ではあるまい。外の方では気が急くか、厚い樫の扉を拳にて会釈なく夜陰に響けと叩く。三度目に敲いた音が、物静かな夜を四方に破ったとき、偶像の如きウィリアムは氷盤を空裏に撃砕する如く一時に吾に・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・二十世紀の倫敦がわが心の裏から次第に消え去ると同時に眼前の塔影が幻のごとき過去の歴史を吾が脳裏に描き出して来る。朝起きて啜る渋茶に立つ煙りの寝足らぬ夢の尾を曳くように感ぜらるる。しばらくすると向う岸から長い手を出して余を引張るかと怪しまれて・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・今日の空気のうちで物をいう人々の脳裡のどこかに、やはり結婚はまじめだがと、その前提の感情は別個のものとして、低くおとしめて見る癖がのこされていて、いきなり結婚、子供と素朴に出されているのだと思う。 実際の場合として、産め、殖やせという標・・・ 宮本百合子 「結婚論の性格」
出典:青空文庫