・・・落ちた花は朽ち腐れて一種甘いような強い香気が小庭に満ちる。ここらに多い大きな蠅が勢いのよい羽音を立ててこれに集まっている。力強い自然の旺盛な気が脳を襲うように思われた。この花の散る窓の内には内気な娘がたれこめて読み物や針仕事・・・ 寺田寅彦 「花物語」
・・・その骨も今は腐れつつある。子規の骨が腐れつつある今日に至って、よもや、漱石が教師をやめて新聞屋になろうとは思わなかったろう。漱石が教師をやめて、寒い京都へ遊びに来たと聞いたら、円山へ登った時を思い出しはせぬかと云うだろう。新聞屋になって、糺・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・わるく云えば立ち腐れを甘んずる様になった。其癖世間へ対しては甚だ気きえんが高い。何の高山の林公抔と思っていた。 その中、洋行しないかということだったので、自分なんぞよりももっとどうかした人があるだろうから、そんな人を遣ったらよかろうと言・・・ 夏目漱石 「処女作追懐談」
・・・髪の毛は汗でねばねばしていて、ふて腐れたように手にザワザワ捲きついて来た。 ――吉田さん、吉田さん。―― 暑苦しいために明けっ放した表から、誰かが呼んだ。 吉田はハッとした。 彼は、本能的に息を詰めた。そして耳を兎のよう・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・ されば曙覧が歌の材料として取り来るものは多く自己周囲の活人事活風光にして、題を設けて詠みし腐れ花、腐れ月に非ず。こは『志濃夫廼舎歌集』を見る者のまず感ずるところなるべし。彼は自己の貧苦を詠めり、彼は自己の主義を詠めり。亡き親を想いては・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・そこで四人は足のさきからだんだん腐れてべとべとになり、ある日とうとう雨に流れてしまいました。 それは蜘蛛暦三千八百年の五月の事です。 二、銀色のなめくじ 丁度蜘蛛が林の入口の楢の木に、二銭銅貨の位の網をかけた頃、銀色・・・ 宮沢賢治 「蜘蛛となめくじと狸」
・・・朽木の屋台にたった一本、いくらかは精のある材木が加えられたところで、その大屋の傾くことを支え切れるものではない。腐れ屋台につがれた細い材木が共に倒れて裂かれないことを願うのは多くの人の心持である。 アメリカから教育に関する専門家たちが大・・・ 宮本百合子 「女の手帖」
・・・と、腐れ布団の入っている戸棚わきの柱のわれ目を叩きながら看守が云った。「イマズをまいたら一どきに八十匹ばし出た」 花曇りの期節が終ると、いつとなし日光の強さがちがって来て、日がのびた。第一房の金網ばりの高窓からチョッピリ三角形に・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・ 日夜地球はめぐりつつあり、こうして、或るところでは重く汁気の多い果実が深い草の上に腐れ墜ち、或るところでは実らぬ実を風にもがれているけれども、豊富な人類の営みは景観の複雑さを、其の面にだけとどめてはいない。ワンダ・ワシリェフスカヤの「・・・ 宮本百合子 「よもの眺め」
・・・当時の進歩的な人々が、腐れ果てた封建の殼から脱け出して、新しい日本人として発展しようとした欲望には、真実が籠っていた。例えば今日常に保守的或は反動的な役割を持っている文部省でさえも創設されたばかりには、本当に日本の人民の間に文字を普及させ、・・・ 宮本百合子 「私たちの建設」
出典:青空文庫