・・・きて与うといえば、出で来ぬには限らぬなるべし、おそろしき事かななど寒月子と窃かに語り合いつつ、好きほどに酒杯を返し納めて眠りに就くに、今宵は蚊もなければ蚊屋も吊らで、しかも涼しきに過ぐれば夜被引被ぎて臥す。室は紙障子引きたてしのみにて雨戸ひ・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・ 来往すること昼夜を無するや或連レ袂歌呼 或は袂を連ねて歌呼し或謔浪笑罵 或は謔浪笑罵す或拗レ枝妄抛 或は枝を拗りて妄りに抛て或被レ酒僵臥 或は酒に被いて僵臥す游禽尽驚飛 游禽は尽く驚・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・池幅の少しく逼りたるに、臥す牛を欺く程の岩が向側から半ば岸に沿うて蹲踞れば、ウィリアムと岩との間は僅か一丈余ならんと思われる。その岩の上に一人の女が、眩ゆしと見ゆるまでに紅なる衣を着て、知らぬ世の楽器を弾くともなしに弾いている。碧り積む水が・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・ いらえもなく初秋の夜の最中に糸蝋のかげに臥す幼児の姿ほど美くしいものはない。悲しいものはない。 私はその傍に静かに思いにふけりながら座して居る。 驚と悲しみに乱された私の心は漸く今少し落ついて来た。 たった五年で――世・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
・・・寝床は妻の寝室と同じであるとしても、軽症者の静臥すべきベランダにあった。ベランダは花園の方を向いていた。彼はこのベランダで夜中眼が醒める度に妻より月に悩まされた。月は絶えず彼の鼻の上にぶらさがったまま皎々として彼の視線を放さなかった。その海・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫