・・・ トその垣根へ乗越して、今フト差覗いた女の鼻筋の通った横顔を斜違いに、月影に映す梅の楚のごとく、大なる船の舳がぬっと見える。「まあ、可いこと!」 と嬉しそうに、なぜか仇気ない笑顔になった。 七「池があ・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・海から細く入江になっていて、伝馬や艀がひしひしと舳を並べた。小揚人足が賑かな節を合せて、船から米俵のような物を河岸倉へ運びこんでいる。晴れきって明るくはあるが、どこか影の薄いような秋の日に甲羅を干しながら、ぼんやり河岸縁に蹲んでいる労働者も・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・静かに櫓こぐ翁の影黒く水に映れり。舳軽く浮かべば舟底たたく水音、あわれ何をか囁く。人の眠催す様なるこの水音を源叔父は聞くともなく聞きてさまざまの楽しきことのみ思いつづけ、悲しきこと、気がかりのこと、胸に浮かぶ時は櫓握る手に力入れて頭振りたり・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・ 冬の寒い夜の暗い晩で、大空の星の数も読まるるばかりに鮮やかに、舳で水を切ってゆく先は波暗く島黒く、僕はこの晩のことを忘れることができない。 船のなかでは酒が初まった。そして談話は同じく猟の事で、自分はおもしろいと思って聞いていたが・・・ 国木田独歩 「鹿狩り」
・・・かかる時浜には見わたすかぎり、人らしきものの影なく、ひき上げし舟の舳に止まれる烏の、声をも立てで翼打ものうげに鎌倉のほうさして飛びゆく。 ある年の十二月末つ方、年は迫れども童はいつも気楽なる風の子、十三歳を頭に、九ツまでくらいが七八人、・・・ 国木田独歩 「たき火」
・・・三四丁のぼると、すきを伺って、相手の頸もとへひらりと飛びこんでくるシャモのように、舳の向きをかえ、矢のように流れ下りながら、こちらへ泳ぎついてきた。そして、河岸へ這い上ると、それぞれの物を衣服の下や、長靴の中にしのばして、村の方へ消えて行っ・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・終局の場面でも、人生の航路に波が高くて、舳部に砕ける潮の飛沫の中にすべての未来がフェードアウトする。伴奏音楽も唱歌も、どうも自分には朗らかには聞こえない。むしろ「前兆的」な無気味な感じがするようである。 海岸に戯れる裸体の男女と、いろい・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・宿の二階から毎日見下ろして御なじみの蚕種検査の先生達は舳の方の炊事場の横へ陣どって大将らしき鬚の白いのが法帖様のものを広げて一行と話している。やっと出帆したのが十二時半頃。甲板はどうも風が寒い。艫の処を見ると定さんが旗竿へもたれて浜の方を見・・・ 寺田寅彦 「高知がえり」
・・・市中の堀などでよく見かけるような、船を家として渡って行く家族の一つである。舳に立っている五十近い男が今呼びかけたのは私ではなくて、さっきから私の絵を見ていた中学生であった。 子供に関するすべての事が稲妻のひらめくように私の頭の中に照らし・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・うねる流を傍目もふらず、舳に立って舟を導く。舟はいずくまでもと、鳥の羽に裂けたる波の合わぬ間を随う。両岸の柳は青い。 シャロットを過ぐる時、いずくともなく悲しき声が、左の岸より古き水の寂寞を破って、動かぬ波の上に響く。「うつせみの世を、・・・ 夏目漱石 「薤露行」
出典:青空文庫