・・・私は文天祥がドウ書いたか、白楽天がドウ書いたかと思っていろいろ調べてしかる後に書いた文よりも、自分が心のありのままに、仮名の間違いがあろうが、文法に合うまいが、かまわないで書いた文の方が私が見ても一番良い文章であって、外の人が評してもまた一・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・その手続きはどうでも好い事だから、申しません。わたくしはその男の妻だと、只今まで思っていた女です。わたくしはあなたの人柄を推察して、こう思います。あなたは決して自分のなすった事の成行がどうなろうと、その成行のために、前になすった事の責を負わ・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・ 殊に、幼児の時分には、お母さんは、全く太陽そのものであって、なんでもお母さんのしたことは、正しくあればまた美しくもあり、善いことでもあったでありましょう。実に、子供の眼には、お母さんは、人間性そのものゝ化身の如く感ぜられるのです。お母・・・ 小川未明 「お母さんは僕達の太陽」
・・・俺が行くと好いのだが、俺はちと重過ぎる。ちっとの間の辛抱だ。行って来い。行って梨の実を盗んで来い。」 すると、子供が泣きながら、こう言いました。「お爺さん。御免よ。若し綱が切れて高い所から落っこちると、あたい死んじまうよ。よう。後生・・・ 小山内薫 「梨の実」
・・・ 風通しの良い部屋をと言うと、二階の薄汚い六畳へ通された。先に立った女中が襖をひらいた途端、隣室の話し声がぴたりとやんだ。 女中と入れかわって、番頭が宿帳をもって来た。書き終ってふと前の頁を見ると、小谷治 二十九歳。妻糸子 三十四歳・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・それには丁度先刻しがた眼を覚して例の小草を倒に這降る蟻を視た時、起揚ろうとして仰向に倒けて、伏臥にはならなかったから、勝手が好い。それで此星も、成程な。 やっとこなと起かけてみたが、何分両脚の痛手だから、なかなか起られぬ。到底も無益だと・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・それがこの三年以来の暑気だという東京の埃りの中で、藻掻き苦しんでいる彼には、好い皮肉であらねばならなかった。「いや、Kは暑を避けたんじゃあるまい。恐らくは小田を勿来関に避けたという訳さ」 斯う彼等の友達の一人が、Kが東京を発った後で・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・病人は「如何したら良いんでしょう」と私に相談です。私は暫く考えていましたが、願わくば臨終正念を持たしてやりたいと思いまして「もうお前の息苦しさを助ける手当はこれで凡て仕尽してある。是迄しても楽にならぬでは仕方がない。然し、まだ悟りと言うもの・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・おそらくこれが人の好い聾の態度とでもいうのだろう。だから商売は細君まかせである。細君は醜い女であるがしっかり者である。やはりお人好のお婆さんと二人でせっせと盆に生漆を塗り戸棚へしまい込む。なにも知らない温泉客が亭主の笑顔から値段の応対を強取・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・彼家じゃ奥様も好い方だし御隠居様も小まめにちょこまかなさるが人柄は極く好い方だし、お清様は出戻りだけに何処か執拗れてるが、然し気質は優しい方だし」と思いつづけて来てハタとお徳の今日昼間の皮肉を回想して「水の世話にさえならなきゃ如彼奴に口なん・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
出典:青空文庫