・・・殊に唖々子はこの夜この事を敢てするに至るまでの良心の苦痛と、途中人目を憚りつつ背負って来たその労力とが、合せて僅弐円にしかならないと聞いては、がっかりするのも無理はない。口に啣えた巻煙草のパイレートに火をつけることも忘れていたが、良久あって・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
・・・これらの準備からなる先生の『日本歴史』は、悉く材料を第一の源から拾い集めて大成したもので、儲からない保証があると同時に、学者の良心に対して毫も疚ましからぬ徳義的な著作であるのはいうまでもない。「余は人間に能う限りの公平と無私とを念じて、・・・ 夏目漱石 「博士問題とマードック先生と余」
・・・を直覚させるであらうところの装幀――に関して、多少の行き届いた良心と智慧とをもつてゐる文学者たちは、決していつも冷淡であることができないだらう。 けれどもこの注文は、実際に於て満足されない事情がある。なぜかならば我等の芸術を装幀するもの・・・ 萩原朔太郎 「装幀の意義」
・・・無条件にその夢に身を任せている女もあり、良心と戦いながらその夢を見ている女もありますが、どちらもこの夢の恋は platonique なのでございます。この platonisme が夢の美しいところで、それが無かったら、そう云う女は重婚をいた・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・この良心の基礎から響くような子供らしく意味深げな調を聞けば、今まで己の項を押屈めていた古臭い錯雑した智識の重荷が卸されてしまうような。そして遠い遠い所にまだ夢にも知らぬ不思議の生活があって、限無き意味を持っている形式に現われているのが、鐘の・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・(兵卒悄然(兵卒らこの時漸く饑餓を回復し良心の苛責に勝兵卒三「おれたちは恐ろしいことをしてしまったなあ。」兵卒十「全く夢中でやってしまったなあ。」兵卒一「勲章と胃袋にゴム糸がついていたようだったなあ」兵卒九「・・・ 宮沢賢治 「饑餓陣営」
・・・榊山氏の文章は虚無的な色調の上に攪乱された神経と、破れて鋭い良心の破片の閃きとで或る種の市街戦の行われている国際都市の或る立場の人々としての現実を反映している。けれども、これらの文章の大体は、私たちが夜中にも立ち出て見送った兵士たちの生活と・・・ 宮本百合子 「明日の言葉」
・・・秀麿が為めには、神話が歴史でないと云うことを言明することは、良心の命ずるところである。それを言明しても、果物が堅実な核を蔵しているように、神話の包んでいる人生の重要な物は、保護して行かれると思っている。彼を承認して置いて、此を維持して行くの・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・そして今逆に先手を打って、安次を秋三から心良く寛大に引き取ってやったとしたならば、自分の富の権威を一倍敵に感ぜしめもし、彼の背徳を良心に責めしめもする良策になりはしないか、と考えついた時には、早や彼は家に帰って風呂の湯加減をみる為に、一寸手・・・ 横光利一 「南北」
・・・語の端々までも峻厳な芸術的良心が行きわたっている。はち切れるような力が語の下からのぞいている。短い描写が驚くべき豊富な人生を示唆する。 ところで自分はどうであろう。強調すべき点は気が済むまでも詳しく書こうとする。そのために空虚な語のはい・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
出典:青空文庫