・・・が、ある日の午後、――ある花曇りに曇った午後、僕は突然彼の口から彼の恋愛を打ち明けられた。突然?――いや、必ずしも突然ではなかった。僕はあらゆる青年のように彼の従妹を見かけた時から何か彼の恋愛に期待を持っていたのだった。「美代ちゃんは今・・・ 芥川竜之介 「彼」
・・・もうちと経つと、花曇りという空合ながら、まだどうやら冬の余波がありそうで、ただこう薄暗い中はさもないが、処を定めず、時々墨流しのように乱れかかって、雲に雲が累なると、ちらちら白いものでも交りそうな気勢がする。……両三日。 今朝は麗かに晴・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・新聞にも上野の彼岸桜がふくらみかけたといって、写真も出ていたが、なるほど、久しぶりで仰ぐ空色は、花曇りといった感じだった。まだ宵のうちだったが、この狭い下宿街の一廓にも義太夫の流しの音が聞えていた。「明日は叔父さんが来るだ……」おせいは・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・ 竹は筍の出る頃、其葉の色は際立って醜い。竹が美しい若葉を着けるのは、子が既に若竹になってからである。生殖を営んで居る間の衰えということをある時つくづく感じたことがあった。 花曇り、それが済んで、花を散らす風が吹く。その後に晩春の雨・・・ 田山花袋 「新茶のかおり」
・・・「春雨」「五月雨」「しぐれ」の適切な訳語を外国語に求めるとしたら相応な困惑を経験するであろうと思われる。「花曇り」「かすみ」「稲妻」などでも、それと寸分違わぬ現象が日本以外のいずれの国に見られるかも疑問である。たとえばドイツの「ウェッターロ・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
・・・ 花曇りの期節が終ると、いつとなし日光の強さがちがって来て、日がのびた。第一房の金網ばりの高窓からチョッピリ三角形に見える青空と、どこかの家の黄色っぽいペンキを塗ったトタンの羽目が落付かない光で反射するようになった。非人間的な無為と不潔・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・ 春の東京を一帯に曇らす砂塵が堪らないのが第一の原因だ。花曇りなどと云う美的感情に発足したあれは胡麻化しで、実は塵埃が空を覆うのに違いない。一時間も外を歩くと歯の中までじゃりじゃりになるようだ。その心持も厭だし、春は我々こそと云うように・・・ 宮本百合子 「塵埃、空、花」
出典:青空文庫