・・・ 家康は花鳥の襖越しに正純の言葉を聞いた後、もちろん二度と直之の首を実検しようとは言わなかった。 二 すると同じ三十日の夜、井伊掃部頭直孝の陣屋に召し使いになっていた女が一人俄に気の狂ったように叫び出した。・・・ 芥川竜之介 「古千屋」
・・・ど類のないのを着て下されとの心中立てこの冬吉に似た冬吉がよそにも出来まいものでもないと新道一面に気を廻し二日三日と音信の絶えてない折々は河岸の内儀へお頼みでござりますと月始めに魚一尾がそれとなく報酬の花鳥使まいらせ候の韻を蹈んできっときっと・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・なお、挿絵のサンプルとして、三画伯の花鳥図同封、御撰定のうえ、大体の図柄御指示下されば、幸甚に存上候。」 月日。「前略。ゆるし玉え。新聞きり抜き、お送りいたします。なぜ、こんなものを、切り抜いて置いたのか、私自身にも判明せず。今・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・巻物に描かれた雲や波や風景や花鳥は、その背景となり、モンタージュとなり、雰囲気となり、そうしてきたるべき次の場面への予感を醸成する。そこへいよいよ次の画面が現われて観者の頭脳の中の連続的なシーンと「コインシデンス」をする。そうして観者の頭の・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・尤もある画を見ると色彩については線法や構図に対するほどの苦心はしていないかと思われるのもないではないが、しかし簡単な花鳥の小品などを見ても一見何らの奇もないような配色の中に到底在来の南画家の考え及ばないと思われる創見的な点を発見する事が出来・・・ 寺田寅彦 「津田青楓君の画と南画の芸術的価値」
・・・しかしそれと同じような絵で、もっと好いのを前にどこか他所で見たような気がし出して来ると、私の眼は自然にその隣りの小型の美人画や花鳥画に移って行ったりする。 二室三室と移って行くうちに、始めの緊張した心持は孔のあいた風船玉のようにしぼみ縮・・・ 寺田寅彦 「帝展を見ざるの記」
・・・床の間に山水花鳥の掛け物をかけるのもまたそのバリアチオンと考えられなくもない。西洋でも花瓶に花卉を盛りバルコンにゼラニウムを並べ食堂に常緑樹を置くが、しかし、それは主として色のマッスとしてであり、あるいは天然の香水びんとしてであるように見え・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
・・・ こういうふうな立場から見れば「花鳥諷詠」とか「実相観入」とか「写生」とか「真実」とかいうようないろいろなモットーも皆一つのことのいろいろな面を言い現わす言葉のように思われて来るのである。 短歌もやはり日本人の短詩である以上その中に・・・ 寺田寅彦 「俳句の精神」
・・・ わくに張った絵絹の上に山水や花鳥を描いているのを、子供の私はよくそばで見ていた。長い間見ていても、ほとんど口をきくという事はなかった。しかし、さも楽しそうに筆を動かしては楊枝をかんでながめているのを、そばで黙って見ているのがなんとなく・・・ 寺田寅彦 「亮の追憶」
・・・画家文士の如き芸術に従事する人たちが明治の末頃から、祖国の花鳥草木に対して著しく無関心になって来たことを、むしろ不思議となしている。文士が雅号を用いることを好まなくなったのもまた明治大正の交から始った事である。偶然の現象であるのかも知れない・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
出典:青空文庫