「何しろこの頃は油断がならない。和田さえ芸者を知っているんだから。」 藤井と云う弁護士は、老酒の盃を干してから、大仰に一同の顔を見まわした。円卓のまわりを囲んでいるのは同じ学校の寄宿舎にいた、我々六人の中年者である。場所・・・ 芥川竜之介 「一夕話」
・・・これが泉鏡花の小説だと、任侠欣ぶべき芸者か何かに、退治られる奴だがと思っていた。しかしまた現代の日本橋は、とうてい鏡花の小説のように、動きっこはないとも思っていた。 客は註文を通した後、横柄に煙草をふかし始めた。その姿は見れば見るほど、・・・ 芥川竜之介 「魚河岸」
・・・この間に桜の散っていること、鶺鴒の屋根へ来ること、射的に七円五十銭使ったこと、田舎芸者のこと、安来節芝居に驚いたこと、蕨狩りに行ったこと、消防の演習を見たこと、蟇口を落したことなどを記せる十数行それから次手に小説じみた事実談を一つ報告しまし・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・……当日は伺候の芸者大勢がいずれも売出しの白粉の銘、仙牡丹に因んだ趣向をした。幇間なかまは、大尽客を、獅子に擬え、黒牡丹と題して、金の角の縫いぐるみの牛になって、大広間へ罷出で、馬には狐だから、牛に狸が乗った、滑稽の果は、縫ぐるみを崩すと、・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ が、また娘分に仕立てられても、奉公人の謙譲があって、出過ぎた酒場の給仕とは心得が違うし、おなじ勤めでも、芸者より一歩退って可憐しい。「はい、お酌……」「感謝します、本懐であります。」 景物なしの地位ぐらいに、句が抜けたほど・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・お蔦 切れるの別れるのッて、そんな事は、芸者の時に云うものよ。……私にゃ死ねと云って下さい。蔦には枯れろ、とおっしゃいましな。ツンとしてそがいになる。早瀬 お蔦、お蔦、俺は決して薄情じゃない。お蔦 ええ、薄情とは思い・・・ 泉鏡花 「湯島の境内」
・・・隣りが料理屋で芸者も一人かかえてあるので、時々客などがあがっている時は、随分そうぞうしかった。しかし僕は三味線の浮き浮きした音色を嫌いでないから、かえって面白いところだと気に入った。 僕の占領した室は二階で、二階はこの一室よりほかになか・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・知らないものは芸者でもなし、娘さんでもなし、官員さんの奥様らしくもなしと眼をって美貌と美装に看惚れたもんだ。その時分はマダ今ほど夫婦連れ立って歩く習慣が流行らなかったが、沼南はこの艶色滴たる夫人を出来るだけ極彩色させて、近所の寄席へ連れてっ・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・と、それから今の女の教育が何の役にも立たない事、今の女の学問が紅白粉のお化粧同様である事、真の人間を作るには学問教育よりは人生の実際の塩辛い経験が大切である事、茶屋女とか芸者とかいうような下層に沈淪した女が案外な道徳的感情に富んでいて、率と・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・忘れもしねえが、何でもあれは清元の師匠の花見の時だっけ、飛鳥山の茶店で多勢芸者や落語家を連れた一巻と落ち合って、向うがからかい半分に無理強いした酒に、お前は恐ろしく酔ってしまって、それでも負けん気で『江戸桜』か何か唄って皆をアッと言わせた、・・・ 小栗風葉 「深川女房」
出典:青空文庫