・・・「お前のお母さんなんぞは後生も好い方だし、――どうしてああ苦しむかね。」 二人はしばらく黙っていた。「みんなまだ起きていますか?」 慎太郎は父と向き合ったまま、黙っているのが苦しくなった。「叔母さんは寝ている。が、寝られ・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・一つの道を踏みかけては他の道に立ち帰り、他の道に足を踏み入れてなお初めの道を顧み、心の中に悶え苦しむ人はもとよりのこと、一つの道をのみ追うて走る人でも、思い設けざるこの時かの時、眉目の涼しい、額の青白い、夜のごとき喪服を着たデンマークの公子・・・ 有島武郎 「二つの道」
・・・え、お香、そうしておまえの苦しむのを見て楽しむさ。けれどもあの巡査はおまえが心からすいてた男だろう。あれと添われなけりゃ生きてる効がないとまでに執心の男だ。そこをおれがちゃんと心得てるから、きれいさっぱりと断わった。なんと慾のないもんじゃあ・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・ 二人が相擁して死を語った以後二十年、実に何の意義も無いではないか。苦しむのが人生であるとは、どんな哲学宗教にもいうてはなかろう。しかも実際の人生は苦しんでるのが常であるとはいかなる訳か。 五十に近い身で、少年少女一夕の癡談を真面目・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・まだ熱さに苦しむというほどに至らぬ若葉の頃は、物参りには最も愉快な時である。三人一緒になってから、おとよも省作も心の片方に落ちつきを得て、見るものが皆面白くなってきた。おのずから浮き浮きしてきた。目下の満足が楽しく、遠い先の考えなどは無意識・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・私は、そのまゝ家に帰って苦しむ病人を見るに忍びず、木枯の吹く中を夜の十一時頃まで、閉った門の傍に立って友達の帰るのを待っていたことがあります。 こう書いているうちにも、いろ/\友達に、厄介をかけたり、また、親切にしてもらったりしたことが・・・ 小川未明 「貧乏線に終始して」
・・・ これまで新吉は書き出しの文章に苦しむことはあっても、結末のつけ方に行き詰るようなことは殆どなかった。新吉の小説はいつもちゃんと落ちがついていた。書き出しの一行が出来た途端に、頭の中では落ちが出来ていた。いや結末の落ちが泛ばぬうちは、書・・・ 織田作之助 「郷愁」
・・・どこからかヒーヒーと泣き苦しむ声がかすかに聴えて来たのだ。佐伯は暗がりに眼をひからせた。道端に白い仔犬が倒れているのだった。赤い血が不気味などす黒さにどろっと固まって点点と続いていた。自動車に轢かれたのだなと佐伯は胸を痛くした。犬の声はしの・・・ 織田作之助 「道」
・・・ この薄福者の命を断ったそればかりで、こうも苦しむことか? この人殺の外に、何ぞおれは戦争の利益になった事があるか? 人殺し、人殺の大罪人……それは何奴? ああ情ない、此おれだ! そうそう、おれが従軍しようと思立った時、母もマリヤも・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・何気ない眼附きをしようなど思うのが抑ゝの苦しむもとです。 また電車のなかの人に敵意とはゆかないまでも、棘々しい心を持ちます。これもどうかすると変に人びとのアラを捜しているようになるのです。学生の間に流行っているらしい太いズボン、変にべた・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
出典:青空文庫