・・・偶ま中路暑に苦み樹下に憩い携うる所の一新聞紙を披いて之を閲するに、中に載する有りチシヨンの博士会一文題を発し賞を懸けて能く応ずる者あるを募る。其題に曰く学術技科の進闡せしをば人の心術風俗に於て益有りしと為す乎将た害ありしと為す乎とルーソー之・・・ 幸徳秋水 「文士としての兆民先生」
・・・のんでみると、ほどよい苦味があって、なるほどおいしかったのである。「どうしてまた。風流ですね。」「いいえ。おいしいからのむのです。わたくし、実話を書くのがいやになりましてねえ。」「へえ。」「書いていますよ。」青扇は兵古帯をむ・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・良薬の苦味、おゆるし下さい。おそらくは貴方を理解できる唯一人の四十男、無二の小市民、高橋九拝。太宰治学兄。」 下旬 月日。「突然のおたよりお許し下さい。私は、あなたと瓜二つだ。いや、私とあなた、この二人のみに非ず・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・もちろん、寝ながら、かつ苦みながら書いたろうとおぼしく、墨もうすく、字も大きなまずく書いてあるけれども……。私はそれを見て泣きたいような気がした。遼陽の攻略の結果を、死の床に横たわって考えている小さなあわれな日本国民の心は、やがてこの世界的・・・ 田山花袋 「『田舎教師』について」
・・・富士が女性ならばこれは男性である。苦味もあれば渋味もある。誠に天晴な大和男児の姿である。この美しい姿を眺めながら妙な夢のような事を考えてみるのであった。 誰かも云ったように、砂漠と苦海の外には何もない荒涼落莫たるユダヤの地から必然的に一・・・ 寺田寅彦 「札幌まで」
・・・その屈辱の苦味をかみしめて歩いているうちに偶然ある家へはいると、そこは冷やかな玄関でも台所でもなくそこに思いがけない平和な家庭の団欒があって、そして誰かがオルガンをひいていたとする。その瞬間に乞食としての自分の情緒がいくらかの変化を受けはし・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・そうして死んだ人間の追憶には美しさの中にも何かしら多少の苦みを伴なわない事はまれであるのに、これらの家畜の思い出にはいささかも苦々しさのあと味がない。それはやはり彼らが生きている間に物を言わなかったためであろう。 猫の死・・・ 寺田寅彦 「備忘録」
・・・珍々先生はこんな事を考えるのでもなく考えながら、多年の食道楽のために病的過敏となった舌の先で、苦味いとも辛いとも酸いとも、到底一言ではいい現し方のないこの奇妙な食物の味を吟味して楽しむにつけ、国の東西時の古今を論ぜず文明の極致に沈湎した人間・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・思わぬ人の誰なるかを知りたる時、天が下に数多く生れたるもののうちにて、この悲しき命に廻り合せたる我を恨み、このうれしき幸を享けたる己れを悦びて、楽みと苦みの綯りたる縄を断たんともせず、この年月を経たり。心疚ましきは願わず。疚ましき中に蜜ある・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・昔、君と机を並べてワシントン・アービングの『スケッチブック』を読んだ時、他の心の疵や、苦みはこれを忘れ、これを治せんことを欲するが、独り死別という心の疵は人目をさけてもこれを温め、これを抱かんことを欲するというような語があった、今まことにこ・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
出典:青空文庫