・・・が、何か苦労でもあるのか、この女の子の下ぶくれの頬は、まるで蝋のような色をしていました。「何を愚図々々しているんだえ? ほんとうにお前位、ずうずうしい女はありゃしないよ。きっと又台所で居睡りか何かしていたんだろう?」 恵蓮はいくら叱・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・……しかし今夜は御苦労だった。行く前にもう一言お前に言っておくが」 そういう発端で明日矢部と会見するに当たっての監督としての位置と仕事とを父は注意し始めた。それは懇ろというよりもしちくどいほど長かった。監督はまた半時間ぐらい、黙ったまま・・・ 有島武郎 「親子」
・・・「それでは、母親、御苦労でございます。」「何んの、お前。」 と納戸へ入って、戸棚から持出した風呂敷包が、その錦絵で、国貞の画が二百余枚、虫干の時、雛祭、秋の長夜のおりおりごとに、馴染の姉様三千で、下谷の伊達者、深川の婀娜者が沢山・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ 世に親というものがなくなったときに、われらを産んでわれらを育て、長年われらのために苦労してくれた親も、ついに死ぬ時がきて死んだ。われらはいま多くのわが子を育てるのに苦労してるが……と考えた時、世の中があまりありがたくなく思われだした。・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・「あんな者でも、おってくれれば事がすんで行くけれど、おらなくなれば、またその代りを一苦労せにゃならん。――おい、お君、馬鹿どもにお銚子をつけてやんな」 お君は、あざ笑いながら、台どころに働いている母にお燗の用意を命じた。 僕は何だか・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・初代もなかなか苦労人でかつ人徳があったが、淡島屋の身代の礎を作ったのは全く二代目喜兵衛の力であった。四 狂歌師岡鹿楼笑名 前記の報条は多分喜兵衛自作の案文であろう。余り名文ではないが、喜兵衛は商人としては文雅の嗜みがあったの・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・だから、この世の中の苦労も知っていらっしゃれば、また、どことなく、そのお姿に、さびしいところがありました。「私は、からだが、そう強いほうではないし、それに故郷は寒いんですから、帰りたくはないけれど、どうしても帰るようになるかもしれないの・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
・・・が横から引き取って、「一体その娘の死んだ親父というのが恐ろしい道楽者で自分一代にかなりの身上を奇麗に飲み潰してしまって、後には借金こそなかったが、随分みじめな中をお母と二人きりで、少さい時からなかなか苦労をし尽して来たんだからね。並みの懐子・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・それまでの苦労は実に大変だ。彼は見ていて胸が痛む。轍の音がしばらく耳を離れないのだ。 雨降りや雨上りの時は、蹄がすべる。いきなり、四つ肢をばたばたさせる。おむつをきらう赤ん坊のようだ。仲仕が鞭でしばく。起きあがろうとする馬のもがきはいた・・・ 織田作之助 「馬地獄」
・・・考えてみるとおやじ一代の苦労なんてたいへんなものだったろうよ。ただこれで、第一公式なんていうことなしに、ポカポカとすましてこられるんだと申し分ないがなあ……」「たいていだいじょうぶでしょうよ。ほかに来る人ってもないんだから、このままだっ・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
出典:青空文庫