・・・石田は苦味走ったいい男で、新内の喉がよく、彼女が銚子を持って廊下を通ると、通せんぼうの手をひろげるような無邪気な所もあり、大宮校長から掛って来た電話を聴いていると、嫉けるぜと言いながら寄って来てくすぐったり、好いたらしい男だと思っている内に・・・ 織田作之助 「世相」
・・・のんでみると、ほどよい苦味があって、なるほどおいしかったのである。「どうしてまた。風流ですね。」「いいえ。おいしいからのむのです。わたくし、実話を書くのがいやになりましてねえ。」「へえ。」「書いていますよ。」青扇は兵古帯をむ・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・良薬の苦味、おゆるし下さい。おそらくは貴方を理解できる唯一人の四十男、無二の小市民、高橋九拝。太宰治学兄。」 下旬 月日。「突然のおたよりお許し下さい。私は、あなたと瓜二つだ。いや、私とあなた、この二人のみに非ず・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・富士が女性ならばこれは男性である。苦味もあれば渋味もある。誠に天晴な大和男児の姿である。この美しい姿を眺めながら妙な夢のような事を考えてみるのであった。 誰かも云ったように、砂漠と苦海の外には何もない荒涼落莫たるユダヤの地から必然的に一・・・ 寺田寅彦 「札幌まで」
・・・その屈辱の苦味をかみしめて歩いているうちに偶然ある家へはいると、そこは冷やかな玄関でも台所でもなくそこに思いがけない平和な家庭の団欒があって、そして誰かがオルガンをひいていたとする。その瞬間に乞食としての自分の情緒がいくらかの変化を受けはし・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・珍々先生はこんな事を考えるのでもなく考えながら、多年の食道楽のために病的過敏となった舌の先で、苦味いとも辛いとも酸いとも、到底一言ではいい現し方のないこの奇妙な食物の味を吟味して楽しむにつけ、国の東西時の古今を論ぜず文明の極致に沈湎した人間・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・ 愛を失った事で或程度の苦味を嘗めた心は、人を計ろうとする奸策で汚され、其に成就した誇りで穢されなければならないのでございます。 其に比べれば、良人の受けた結果は、そういう性質を知らずに結婚した不明と、その策略を感じなかった事を賢く・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・世に苦味走ったという質の男の顔に注がれている。 一の本能は他の本能を犠牲にする。 こんな事は獣にもあろう。しかし獣よりは人に多いようである。 人は猿より進化している。 森鴎外 「牛鍋」
出典:青空文庫